小口さんのシュワッチ!!

日本にいた時に、約2年間特別養護老人ホームで働いていた事があります。

その時に痛烈に思ったのが、人間誰しも老いて、人様の助けを借り、最後は一人で死んでいくと言う事を殆どの人が他人事だと思っている。

どうやったら、このハチャメチャかつ、壮絶な介護の現場を一般の人に理解して貰えるだろう?

面白おかしく読み物として紹介出来ないか?と当時挑戦しました。

種明かしをしてしまいますが、この物語は完成してしません。途中でプツリと終わってしまっています。

エンディングは頭の中で出来上がっているのですが、なかなか、書こう!って気持ちにならない。

完成させた所で何がある訳では無いのですがね。。。



小口さんのシュワッチ!!

 

その不思議な老人に初めて会ったのは、駅前の居酒屋だった。

 

いや、居酒屋なんて呼べる店では無い。コンクリートむき出しの床は、タバコの吸い殻や焼き鳥の串なんかが、転がっているし、どう見ても素人の手による設計ミスのカウンターは首を吊るほど高かった。 テーブルも、寅さんが旅先で入る食堂で良く見る、足が細く鉄パイプ製のタイプだった。

 

そんな店だが、朝の8時から営業をしている店内は作業服を着てくたびれた人達で何時も賑わっていた。

 

その日の朝、宿直明けだった僕はいつもの様にママチャリを転がして、職場から10分程度のボロアパートに帰り爆睡をする予定だった。

 

朝から眠そうな表情で商店街を一方向に行進する通勤途中のサラリーマン達の横をすり抜け、まだ、ほとんどの店のシャッターが閉まっている商店街を走っていると、何とも朝の清々しい空気とは程遠い、おっさん達のだみ声が聞こえて来た。

 

「海はヨ~ 海はヨ~でっかい海はヨ~」

 

腕時計を見ると、まだ、8時10分。

おいおい。開店10分でもう出来上がっちゃってるよ。酒じゃなくて、何か危ない物でも飲んでるんじゃないだろうなー。

 

店の前で一旦ママチャリを止めて、汚れてすりガラス状態になったガラス戸越しに中を覗いてみる。

 

外で聞こえた賑やかさの割に、店内は閑散としていて、テーブル席に僕と同じく夜通し働いたのであろうか、恐らくは先ほど騒音の発信源であるニッカポッカ姿にねじり鉢巻きの男性が二人、カウンターには完全にくたびれ果てた初老の男性が徳利を傾けていた。

 

異常な暑さが続いた夏が嘘だった様に12月に入り日本らしく律儀に正しい冬がやってきていた。

 

たった、5分程度自転車を漕いだだけだったが、正面からの北風に想像以上に体温を奪われ、いつも朝から酒を飲むバカが居ると思い店を通りすぎていた僕だが、その日はなんだか、店の中から誰かに「おいで、おいで」をされているような気がして店の横に自転車を止めた。

 

「まっ、たまには、いいか。熱燗を一杯引っ掛けて、一人寂しく爆睡するか」

 

今どき珍しく、木の枠に薄いガラスが入っただけの、簡単な戸を滑らせて店の中に首だけ入れる。

 

テーブル席で既に出来上がった二人組は一瞬、僕を見たが、又、すぐに向き合って大声で話し始めた。

 

二人組の横に座ると、酒のつまみにされそうだったので、比較的安全そうな、カウンター席に腰を下ろした。

 

一つ席を空けて座っている初老の男性は聞き取れないほど小さな声でブツブツ言いながら、盃の酒をチビチビをやっている。

 

カウンターに座り、「さて」と思っていると、カウンター奥の扉が開き、店主らしい人が賑やかに入ってきた。

 

「おー。今朝は冷えるなー。北風小僧の寒太郎♫ってか」

 

何十年ぶりに聞いた。。。NHKの「みんなのうた」だっただろうか。

 

「おっと、いらっしゃい。」「お兄さん、ごめんなさいよ、待たせちゃったかな」

 

「いえ、今、来たばかりです」

 

「そうですか。何にしましょうか?」

 

「一合で良いので、燗にしてください」

 

「おっ。お兄さん朝から景気いいねー」

 

・・・・

 

「はい。おまち。まずは燗ね」

 

店には似つかわしくない、何とか焼き風の高そうな色の鮮やかな徳利。

 

小声で、おっとっと。。と独り言を言いながら、小ぶりな盃に日本酒を注ぐ。

 

朝から酒を飲むなんて何年ぶりだろうか?

唇に盃を近づけると、安酒特有の酸っぱい様な香りが鼻の奥をツーンと刺激した。

啜るように一口飲む。

 

思わず目を閉じた。

 

「くうー。五臓六腑に染みわたるとはこういう状態の事を言うのだろう。よく考えてみれば、早い夕飯を食べてから14時間以上も経っている。」

 

「はい、おまたせ。お通しね。今日は、牡蠣を煮てみました」

おー。牡蠣の煮物とは、この親父。実は元名門店の料理長か何かだったりして。

特殊な?高度な?調理方法なのか?鮮やかなオレンジ色だ。

七味を少々振りかけ、一口食べてみる。

 

今まで食べた事のない牡蠣の味付けだ。

味付けが甘すぎるかもしれない。お醤油を掛けて食べようとした時

 

「あらららら・・・醤油は合わないでしょう。お醤油は」と店主に止められた。

 

「かきは飲む前に食べるといーんだよ。でも、食べ過ぎると、身体が冷えるからねー。うちの店は適量ね。適量」

 

「身体を冷やすのは、“柿”でしょう」

 

「だから、“柿を煮たのよ”」

 

「えっ?牡蠣じゃなくて、柿?柿は普通煮ないでしょう。っていうかお通しで柿はないでしょうー」

 

「いやいや、店の裏の空き地に柿の木があってね。今朝、横を通ったら、“食べごろ!食べごろ!」って柿ちゃんが誘うのよ。昨日、お通し用の竹輪を注文するの忘れちゃったから、丁度いいと思って柿を煮ちゃった。」

 

「うちのお通し50円なんで、牡蠣は出せないのよー、頑張って竹輪がいい所かな」

 

・・・・まあ、確かに飲む前に食べると良いって聞いたことがあるから良いか・・・

 

一口。

 

二口・・・・

 

「合わねーーー」

 

「すみません。お新香ありますか?」

 

「任せてちゃぶ台。朝から何でも出来るよー。串焼きに刺し身におでん。」「そうか、煮てダメなら焼いてみるか。。。柿」

 

「いや、お新香ください」

 

空っ腹に何かボリュームのあるものを入れたかったが、店に入る前に財布を見たら、500円玉二枚しか入っていなかった。

みかんやバナナの煮物が出る前にさっさと帰ろう。

 

昭和レトロなストーブで温まった店内で、身体がほぐれたせいかあちこちの穴が緩みオシッコがしたくなってきた。

 

「すみません。トイレありますか?」

 

「店にはないんだよねー。そこの階段をあがると突き当りにウチのトイレがあるから使ってちょうだい」

 

暖簾を手で分けて、階段の上の方を見上げると、薄暗い。

 

鬼婆みたいな女房でもいたら、嫌だなーと思いつつ、そーっと音を立てないように階段を昇る。登り切ると、細長い廊下が真っ直ぐのびており、店主の言う通り奥にトイレらしき扉があった。廊下の左側は今時珍しい、所々、ピカピカ光る砂壁。右側は煤けた障子の戸があり、子供がふざけて開けた様な穴が沢山あいている。

 

「失礼しまーーーす。」小さく声をかけ、そーっと歩く。

 

穴から中を覗きたいような・・ただ、もし、中にコメカミに絆創膏を貼った様なレトロな女性がいるとそれはそれで怖いので、顔は正面。目だけは思いっ切り右を向いてそーっと歩く、人の気配はなさそうなので、足を一旦止めて、障子の中の方に恐る恐る顔を向けてみる。

 

窓はあるのだが、隣の建物がぴったりとくっついている為に室内は暗く、目が慣れるまで少し時間が掛かった。

 

敷きっぱなしだろうか?布団が一組あり、ちゃぶ台が一つ。「食べごろ!食べごろ!」って話しかけてきた?柿が幾つか畳に転がっていた。

 

窓際に背の低い箪笥があるのだが、金属製の何かが幾つかのっていて、暗い部屋の中で鈍く光っている。

 

障子の穴にさらに顔を近づけて、目を凝らして見るとやはり、トロフィーか楯の様だ。鴨居の上には表彰状も幾つか飾ってある。

 

額のガラスが汚れていてオマケに文字が小さくて、はっきりは見えないのだが表彰状には『何とかコンクール特賞』とある。

 

トロフィーのてっぺんには、包丁を構えた様なポーズの人形飾りが付いている。

・・・と言うことはやはり、店主は只者でないな。。。

ただ、そんな料理人が空き地になった柿を煮るだろうか?そんな事を考えていたら、階下から

 

「お客さん!トイレ分かったかなー?暗かったら電気付けてよー。電気のスイッチも見えないか・・」

 

「はっ。はい!見えます。見えます。トイレ分かりました」

 

外観とは違い清潔なトイレで用を足し、カウンターに戻ると僕の席がずれていた。

じゃなくて、いつの間にか、初老の男性が僕の隣の席に移動していた。

 

「お兄さんの柿、一つ貰ったよ」

 

一つ、貰ったと言うより、器には一つしか残っていなかったので、食べちゃったよ。が正しい日本語だ。

 

「お兄さん、若いのに働かないで、朝からこんな処で飲んでちゃダメだな。身体が動くうちは一生懸命働かなくちゃ」

 

しまった。面倒臭いのはこっちの客だったか、テーブル席に座るべきだった。。。

 

「お爺さん、違いますよ。さっきまで、働いていたんですよ。夜通し働いて、やっと家に帰る所なんです」

 

「それじゃ、あれか、あの二人みたいに、道路に穴掘ったり、旗振ったりか?」

 

歳の割りには太くしっかりとした指でテーブル席の二人を肩越しに指差しながらお爺さんは言った。

 

益々、面倒臭くなってきた、一気に飲んでさっさと帰ろう。

 

「いや、工事じゃなくて、介護の仕事なんですよ。分かりますか?か・い・ご」

 

「当たり前じゃないかー。馬鹿にしちゃいけないよー。わかるよ。かいご。あれだろ、あのー、薬局で売ってるあれだろー。昔はあれも安かったのになー」

確実に120%分かっていない。

 

何と勘違いしているのか、確認するのも面倒臭い。

 

「違いますよー。お爺さんの様な、高齢者の世話をする仕事なんですよー。」いつの間にか、施設で利用者に話している口調になってきた。

 

「馬鹿にするなー」ゴホゴホ、うーッ、ゴホゴホ。ゴホゴホ。

 

急にキャパを越えた大声を出したので、身体がついていかなかったのか、苦しそうにむせてしまった。

タイミングを図り、背中をさすってあげると、少しづつ収まってきた。

 

「お兄さん、さすが、介護のプロ」

 

「なんだー、お爺さん介護知っているんじゃ無いですかー。」

 

「まあね」

 

「ワシはまだまだ、元気だから、あんた達の世話になるのは当分先の話かな」

 

「お爺さん歳は幾つですか?」

 

「76歳、いや、77か?まー、大体それ位」

 

「そうですか、75歳以上になると、後期高齢者と言って、身体や生活の状況に応じて、介護の色々なサービスが受けられるんですよ、判定員による審査はありますけどね」

 

「どこか身体で悪いところはありますか?」

 

「いや、ワシは、毎日これで身体の消毒をしているから健康そのもの」

そう言って、盃を顔の高さに上げて、嬉しそうに笑い、残っていた僅かな日本酒を一気に飲み干した。

そう言えば、隣に座って見ると、肌の艶は良いし、盃を持つ手の震えもなく、元気な様だ。

 

「まあ、そのうちに兄ちゃんの世話になるかもしれないから、一杯奢っちゃおうかな!」

 

「いや、いや、いーですよ。お爺さん」

 

「だから、爺さんじゃないって、年寄り扱いするなって」

 

「親父、熱燗もう2、3本付けて串焼きと、お刺身の美味しいところ、季節だからカキフライも頼んじゃおうかな、おっと、柿を揚げちゃダメだよ、牡蠣ね。かーき。」

 

「いやいや、ダメですよ、僕、今日はお金あんまり持っていないし、お年寄りに奢ってもらっちゃ・・・」

 

「だから、年寄り扱いするなって」

 

「まあ、いーじゃ無いですか。せっかくだから、ご馳走になっちゃいなさいよ」

 

店主そう話しながら、無駄のない見事な包丁さばきで、刺身を切り始めた。

 

それからは、この老人の戦地での武勇伝話しが始まり、現地の女性と恋に落ち、友人をたくさん失いそして終戦を迎えたあたりで、徹夜の疲れもあり僕は撃沈してしまった。

 

どれくらい、時間が経っただろうか、どうやら、カウンターに突っ伏して熟睡してしまった様だ。ガラスの外のサラリーマン達の影はなくなり、その代わりに叔母さんたちの井戸端会議の大声が聞こえた。

 

カウンターの隅に乗っかっている時計を見ると11時45分。店に入ったのが8時過ぎだから、いつの間にか4時間弱も経ってしまった。

 

右頬を下にカウンターに突っ伏して寝ていたので、首が痛い。いつの間にこんなに飲んだのか?

 

目の前には映画やテレビでよく見るありがちな光景。お調子が何本も転がっている。

 

カウンターの向こうでは店主が足を組んで熱心にスポーツ新聞の競馬欄を読んでいた。

 

「す、すみません。夜勤明けだったので、爆睡してしまいました。えー。隣に座っていたお爺さんは?」

 

「帰ったよ。」

 

「えっ?」

 

「もう、1時間位経つかなー」

 

「そうですかー。」

 

見ず知らずの人、それも、年金暮らし?の老人にご馳走になってしまうとは、なんてバチあたりだろうか。

寝違えたのか、首の後ろがズキズキするし、中途半端に寝てしまったので、余計眠くなってしまい、頭もフラフラだ。

 

「どうもご馳走さまでした」と僕。

 

「えっ?」と店主

 

「はっ?」と僕

 

「ちょっと待ってね。

 

店主が電卓を叩き始める。

なんだか、とっても、嫌な結末を迎えそうな雰囲気だ。

 

「はい、毎度ありで、7,200円」

 

・・・やられた。。。

 

それにしても、お通しが500円の店で7,200円とは、この店主もグルか?

 

「このお調子の本数で7,200円は高くないですか?」

 

1000円しか持っていないので、少々恥ずかしかったが尋ねてみた。

 

「あーお連れさんがね、今晩の酒の肴にするからって、刺し身の盛り合わせも持って帰ったのよ」

 

あの、クソジジイ。ふざけやがって。貧乏人にたかるとは。ウチのデイサービスを利用する様な事があったら、昼ごはんを毎食ペースト*にしてやる!

*高齢者の食事形態は咀嚼や嚥下の能力によって、通常、刻み、極刻み、ペースト等に分けられる。今回の場合は嫌がらせと言う意味のペースト。

 

「ここにいた、お爺さん、よく来るんですか?」

 

「たまーにね。二ヶ月に一度くらいかな」

 

大した会話もしないので、名前も住んでいる場所も分からないとの事。

 

その後は、店主に500円玉二枚しか入ってない財布を広げて見せたり、事情を説明して、、、結局、免許証を人質に置いて自宅までお金を取りに行く羽目になった。中途半端に飲んだ身体は自転車の往復で冷えきってしまった。

 

そう。これが、このお爺さんとの出会いだ。




 

東京の墨田区にある、高齢者向けの施設が僕の職場だ。

 

建物の中に特別養護老人ホームと通所サービスが入っている。特別養護老人ホームは一般にいうところの老人ホーム、通所サービスはデイサービスだ。

 

ちなみに、僕はデイサービスのワーカー。介護業界ではスタッフとは呼ばずに、『ワーカー』と呼ばれることが多い。

 

デイサービスは高齢者版託児所の様なものだ。

 

朝、送迎用のワンボックスで利用者さんの自宅に迎えに行き、施設で歌を歌ったり、映画を見たり、食事をして過ごす、時々落語家さんやバイオリンの先生が来たりもする。

 

まだまだ、元気な人から車椅子が必要な人、一人では食事も出来ずトイレに行けない人もいるので、対応するワーカーは大変だ。

 

ワーカーの仕事範囲はとても広い、高齢者送迎の為の車の運転から、食事やトイレの介助、高齢者宅にお弁当の配達も行うし、相談員業務も行ったりする。

 

その日は、天気予報通り、前日の夕方からの雨が残りとても寒い朝だった。こんな日は、わざわざ迎えの車に乗って外出するのが面倒臭いのか?デイサービスを休む利用者さんが多い。通常より2割位少ないので、お迎えの運行も楽勝だ。

 

夕方の送りも余裕、余裕と思っていると昼ご飯の後に、相談員の小林さんから声をかけられた

 

「悪いけど、帰りの送迎の前に新規利用者さんの担当者会議行ってくれる?」

 

おいおい、折角の余裕の一日なのに勘弁してくれよ。どうして、突然なのかは分かっている。悪い人ではないのだが、小林さんはしょっちゅう予定をすっぽかす。

 

なんで、突然なのかはあえて尋ねずに答えた。

 

「了解しました」

 

小林さんから渡された簡単な地図を元に新規利用者さんの家に向かう。

 

住所を見る限り、僕の住むアパートからとても近い。

 

担当者会議というのは、利用者と担当のケアマネージャー、携わるサービス提供者(デイサービス、ヘルパー、介護用品レンタル会社等)が集まり、利用者が今後どの様に生活をしてくか?を話し合う場だ。

 

掃除や洗濯など自分で出来ない場合はヘルパーさんが来て対応してくれる。又、訪問入浴や介護用ベッドや車椅子の貸出、トイレに手すりをつけたり、ベッドに落下防止用の柵をつけたりと、高齢者が生活していくにあたり、様々なサービスが受けられる。

 

僕の担当するデイサービスは一日お年寄りを預かる事により、家族の介護負担の軽減や自宅で入浴が難しい為、施設での入浴、又、独居老人の社会交流が一般的な目的だ。

 

サービス利用にあたっては介護度がポイントになる。

 

対象となる高齢者は介護度設定の為のテストを受け、介護の必要の低い方から【要支援1・2】【要介護1・2・3・4・5】の7段階に分けられる。

 

分かりやすく説明すると、介護度により、一定のポイントが付与され、そのポイントで車椅子をレンタルしたり、デイサービスを利用したりする。介護度が高いほど与えられるポイントが大きいので、よりたくさんのサービスを利用する事ができる。

 

介護保険は利用者の負担が1割で残りの9割が保険者の負担となる、僕の施設の場合は9割を墨田区が負担する事になる。高齢者の数が増える一報で保険者の財源には限りがあるので、介護度の認定についても最近は判定が厳しくなってきた。




到着した2階建ての建物には【金山荘】と言う表札がかかっており、少なく見積もっても築50年は経過してそうな、昔ながらのオンボロアパートだった。ほとんど錆びきった鉄製の外階段には波板の屋根が張ってあり、雨樋からは立派な雑草があちこちに生えている。

 

小林さんから貰った地図には部屋番号の記載がなかったので、“小口正夫”さんの部屋を探さなくてはならない。各部屋のドアには表札などなく、恐らくは住んでいる人達が勝手に書いたのであろう、ドアの上部に手書きで名前が書いてある。

 

2階の一番奥にその部屋はあった。ドアの前に立つと中から数人の話す声、笑い声が聞こえてきた。恐らくは、ケアマネージャーさん達が既に到着をしているのだろう。

 

木目のデコラ板が貼られたドアをノックすると、中から中年の面倒見の良さそうな女性がドアを開けてくれた。典型的なケアマネキャラクターだ。

 

「こんにちは、すみだデイサービスから参りました室川です。「遅くなりました」まだ、約束の時間まで5分あるが、僕は何時もこの様に挨拶をする事にしている。

 

「どうも、ご苦労さまです。皆さんお揃いですよ」

 

市松模様の板張りのキッチンの向こうに6畳程度の部屋があり、介護業者さんらしい人が2人、その向こうに敷いてある布団に男性の高齢者があぐらをかいて座っている。

 

「お邪魔しまーす。。。」

 

この家は大丈夫そうだ。。。

 

と言うのも、独居でまだヘルパーさんが入る前だと、ゴミ屋敷の様な状況に遭遇する事が多い。靴を脱がずにそのまま入りたくなる様なケースも多く、何時だったか、太った福祉用具の担当者が床を踏み抜いてしまった事もある。それ以来、バッグには使い捨ての靴下の上から履けるナイロン製の靴下を入れてある。

 

「それでは始めましょうか。本日は、みなさん忙しい所、小口さんの担当者会議に参加して頂きありがとうございます」

 

「最初に皆さんをご紹介しますね。こちらが、福祉用具の丸山さん、そちらの女性が訪問ヘルパーの田中さん、そして、こちらがすみだデイサービスの室川さんです。 私は小口さんの担当ケアマネ橘です」

 

「小口さん、これから担当者会議と言うのを始めるので一緒に話しを聞いていてくださいね」

 

「あれ?小口さんさっきまで、あんなにたくさん喋っていたのに、急に黙りこんじゃってどうしたのかな?」

 

俯いた小口さんの顔を橘さんが覗き込む。

 

「いや、大丈夫。始めていーよ。」

 

 

ゴホン。

 

 

小口さんが下を向いたまま一つ咳き込む。

 

「今、介護認定結果の連絡待ちです。おそらく、要支援の1は出ると思うのですが、もし、ダメだったら再申請をしますね。」

 

「現段階では暫定のプランで進めさせて頂きます。」

 

ケアマネの話しを聞きながら、フェイスシートに目を通す。昭和12年生まれの76歳。一昨年に奥様を亡くしてからはこのアパートに一人住まいだ。ここ最近認知症の気配も出てきたとも書かれている。

 

パートナーを失ってから認知症が発症するケースは多い。独居の高齢者が認知症になると、掃除、洗濯は勿論、食事すら満足に取ることが出来ずに深刻なケースになる事も多い。この小口さんも同じだろうか。

 

「小口さんは下肢筋力が低下し始めて、トイレへの移動が大変になってきたので、和式から洋式に便器の交換と手すりの設置を行います。」

 

「丸山さん、工事の日程などは会議の後で打ち合わせさせてください」

 

丸山はメモを取りながら、下をむいたまま「はい」と答えた。

 

ヘルパーさんは基本的に週に2回。食べ物の買い出しとお部屋の掃除をお願いします。

 

「小口さん、これから月曜日と木曜日にお手伝いに来ますからね。10時少し前にくるので、ピンポンが鳴ったら鍵を空けてくださいね。分かりましたか?小口さん、小口さん、顔を見せてくれるかな?」

 

「うん。分かったよ」小口さんは顔を上げずに小さく頷いた。

 

「小口さん、こちらは、これから週に1回お世話になるデイサービスの室川さん。デイサービスわかるかな?朝、送迎車で迎えに来てくれるからね。むこうに着いたら、お友達と歌を歌ったり、ご飯やおやつを食べたり、お風呂に入ったり。。楽しいですよ」とケアマネさんが紹介してくれる。

 

「小口さん、ほら、室川さんにお顔を見せてあげて、ご挨拶しましょう。ねえ、小口さん」

 

隣に座っていたヘルパーの田中さんにも肩を叩かれて、渋々と少しだけ顔を上げ、目だけをこちらに向けた。

 

「こんにちは小口さん、すみだデイサービスの室川です。これから、毎週水曜日の9時に迎えに来ますからね。施設で楽しく過ごしましょうね。」

 

「ね、小口さん」

 

小口さんが恥ずかしように顔を少しずつ上げ始めた。目が僕の膝と胸のあたりを行ったり来たりしている。

 

小口さんの顔がほぼ正面を向いた。

 

あれ?小口さん?爺さん?小口さん?どこかで会った?

 

そうだ。居酒屋で支払いを人に押し付けて飲み逃げした爺さんだ。カウンター席では右横顔だけだったが、この妙に愛嬌のある顔はあの爺さんに間違い無い。

 

「初めまして。小口です。」

 

小口さんは少し顔を赤くして伏し目がちに僕に挨拶をした。

 

ワ~。小口さんが又、喋った~。ケアマネの橘さんが嬉しそうに、笑った。

 

 

担当者会議は、その後、日程や既往歴等の説明がケアマネからあったが、飲み逃げ犯人に偶然遭遇した戸惑いと、週に一度利用者として接しなければならない何とも不思議な気持ちで、あまり頭には入らずに、

 

「小口さん、これから宜しくお願いしますねー」と皆で当たり前の挨拶をして帰ってきた。




 

【サービス開始】

 

朝、出社するとまずその日の運行予定が組まれた運行ボードを確認する。車椅子の利用者さんが多いか?ステップ乗車と呼ばれる、自力歩行が可能で車のシートに座っての乗車ができるか?その日によってルートも変更になるので、細心の注意が必要になる。

 

その日は例の小口さんの初日利用日だった。初回面談に行ったと言う理由で僕の朝の運行予定に小口さんの名前があった。

 

小口さんを含めて合計3名、小口さんだけステップ乗車で他の2名は車椅子だ。

 

初回の利用は迎えに行った際に行きたくないと言い出したり、乗車までに予想以上の時間がかかる事が良くあるので、小口さんのアパートにも早めに行くことにした。

 

アパートの前の道はさほど広くないので、出来る限り道路の端に車を停めて、小口さんの部屋に向かう。

 

先日来た小口さんの部屋。ミミズが這ったような下手くそな平仮名、マジックか何かで、「お、ぐ、ち」と書いてある。

 

先日はケアマネ初め、色々な人がいたので、居酒屋の一件を尋ねる事が出来なかったが、そのうち、タイミングを見計らい聞いてみようと思う。でも、フェイスシートには認知症の発症も書いてあったので、尋ね方にも注意をしなくては行けない。

 

「小口さん。お早うございます。すみだデイサービスの室川です。お迎えに参りました。」

 

「小口さん」

 

「お」

 

「ガチャガチャ」

 

ドアの向こうで鍵を開けている様な音がして、ドアがゆっくりと開いた。

 

「おはよう、お兄ちゃん」

 

「お早うございます。今日からスタートですね。宜しくお願いします。」

 

「うん」

 

初日には何かしら転倒などの予期せぬトラブルが起きるのだが、今日は今のところ順調だ。問題は、建築当時に人間工学と言う単語がなかったのか?油断をすると僕でも転げ落ちそうな、急な鉄製の外階段だ。手すりもあるのだが、赤黒いサビが大量に浮いており、掴まって下に降りる頃にはおそらく手のひらはサビだらけになっていることだろう。

 

「小口さん。階段気をつけてくださいね。初日の朝から階段転落事故でもあったら、大変ですからね。」

 

「あー。慣れてるから大丈夫だ。」

 

万が一、小口さんが転がっても受け止められるように、私が小口さんの2~3段先を反対向きで降り始めた。小口さんの手をとってゆっくりと降りるべきなのだが、僕自身、手すりを掴まないと転がり落ちてしまいそうだ。

 

小口さんは言葉とおり、本当に慣れているのか?手すりを掴まずに、ドンドン下のステップに足を進める。

 

「小口さん、時間はありますからゆっくりで大丈夫ですよ。ゆっくりで。」

 

そう話している間にも小口さんのスピードは早くなり、僕は自分が降りるのに必死になってしまった。最後の数段は小口さん信じられない事に1段飛ばしで降り始めた。僕は悲しい事に小口さんのペースについていけず、残り3段の所で後ろ向きのまま、見事に転がってしまった。降りきった所に植え込みがあり、おしりから突っ込む形になったので、怪我はしなかったが何ともみっともない姿のままで小口さんを見上げてへへへと笑った。

 

小口さんは最後の1段も見事に着地をして、体操選手が鉄棒のフィニッシュを決めた様に、両手を高く上げ、嬉しそうに「ウルトラC!」と満面の笑みで声を上げた。

 

まあ、元気に越したことはないのだが、この分では、要支援の判定が出ることはないだろう。その辺を俯いて歩いているサラリーマンなんかよりよっぽど元気だ。

 

ワンボックのシートに腰掛けてもらい、私も運転席に座ったのだが、思ったより植え込みの木の幹が太くしっかりとしており、腰から背中にかけてヒリヒリと痛む。これが利用者さんの事故だったら、ヒヤリハット、嫌、完全に“じこほう”(事故報告)だ。僕自身のかすり傷で済んだのだから良しとしておこう。

 

車内での利用者さんへの対応も結構神経を使う。

 

タクシーも似ていると思うが、こちらは対象が高齢者なので認知症が進んでいれば、会話が全く成り立たないし、話しかけられるのが嫌いな方もいる、かと思えば、一般の人には見えない“何か”が見えてしまうのか?

 

「おかーさーん」「おかーさーん」と叫び続けたり、

 

「だから嫌だって言ってるでしょ。離してよ!」と車内でずーっと意味不明な言葉を繰り返す人もいる。

 

さて、小口さんの場合はどうしようか?と思っていたが、次の利用者さんがすぐ隣のブロックなので、話すまもなく到着してしまった。

 

「小口さん。少し待っていてくださいね」

 

本来デイサービスは利用者さんの安全等を考慮して、ワーカーは二人一組で乗車するのだが、ウチの施設は人件費削減の為に運転手1名での運行だ。利用者さんが高層住宅住まいだったり、シルバーカー利用で乗車までに時間がかかる場合は、車内でトラブルが起きないだろうか?心配になる。

 

幸い、到着した森さんは、玄関に車を横付け出来るので、その辺は安心だ。

 

玄関のブザーを押し、元気よく声をかける。

 

「森さん。おはようございます。すみだデイサービスの室川です。お迎えに参りました。」

 

何時もはおそらく玄関で靴を入って待っていてくれるのだろう、声掛けと同時にドアがひらくのだが、その日は応答が無い。

 

出かける間際にトイレにでも行きたくなったのだろうか?少し間を置いて、再度ブザーを押して見る。中から

 

「はーい」と声がした。

 

送り出しを手伝ってくれる娘さんの様だ。

 

ドアが開き、娘さんがサンダルを引っ掛けて、出てきた。森さんも50年前に会いたかったなーと思うほど、「昔の美人」なのだが、娘さんも美人だ。何度か見かけたことのあるお孫さんも美人だったので、美人家系なのだろう。

 

「あれ?ケアマネさんに、今日はデイサービス休みますって、連絡をしておいたのですが。。。今日は通院日なんですよ」

 

ケアマネから施設に連絡があったかは?確認してみないと分からないが、恐らくは、ウチの施設の連絡ミスだろう。休みの連絡をしていたのに、迎えに行ってしまい、顰蹙を買うことが多い。

 

「失礼しました。通院と言う事で了解しました」

 

「金曜日は通常の利用で大丈夫ですね?」一応念の為に確認をしておく。

 

車に乗るとすぐに施設に電話を掛け、食札を外して貰うようにお願いをする。この連絡を怠ると、来所していないのに、食事が出てきてしまい、今度は栄養士さんの顰蹙を買うことになる。

 

さて、実は困った事態になってしまった。

 

森さんが休みになってしまった為に、次のお宅のお迎え時間まで20分以上ある。あまり早く到着しても、それはそれで迷惑なので、何処かで時間を潰す必要がある。

 

小口さんと社内で二人きりでどうやって時間を過ごすか?

 

とりあえず、ラジオのスイッチを入れ、歌謡曲や時事問題の番組でもあれば良かったのだが、ラップや朝からガチャガチャと煩い放送ばかりなので、切る。

 

社内は小口さんと二人、二人の間の静寂が妙に重い。

 

こんな時は、まず、お天気の話題だ。

 

「あんなに暑かったのに、朝晩はすっかり寒くなりましたねー。」

 

「・・・・・」

 

「車の中、寒くないですか?」

 

“強”でヒーターを入れているので、汗ばむほど暑かったのだが、一応、話しかけてみた。

 

好きな食べ物を聞こうと、口を開こうと思った時、小口さんの口が先に開いた。

 

「お兄さん。名前はなんだっけか?」

 

「室川です」

 

「そうかー室川さん。この間は居酒屋で悪かったなー。あの時のお兄さんだよな」

 

小口さんの方から切り出すとは思わなかったので、一瞬、驚いたが出来るだけ平静を装い、出来るだけ低いトーンで

 

「はい」と答えた。

 

「俺も、何時もあんな事をやっている訳じゃないんだよ。あの時はたまたまと言うか、魔が差したと言うか?ほら、良く言うだろう。出来心って言うやつだな。そのうち、埋め合わせするから勘弁してくれな」

 

逃げられた時には爺さんを見つけて、とっちめてやろうと思ったが、面と向かって詫びられると、そうも行かずに

 

「まあ、いーですよー」と曖昧な返事をした。

 

フェイスシートには認知症に関する記述もあったが、社内で話している限りでは、全く感じられない。恐らくはウチの施設利用者さんの中でも、一番元気だろう。その後、3人目の利用者さんを迎えに行った後、紅白歌合戦の話しをしながら、無事施設に到着した。




すみだデイサービスの利用者の定員は55名なので、フロアも広い。その日によって、休む人も多かったりするのだが、定員目一杯の55名で埋まると、杖を忘れてトイレに行こうと歩き始めてしまう人、ワーカーの目を盗んで勝手に帰ろうとする人、利用者さんの為に設置してある、新聞や雑誌を自分のバッグにせっせと詰め込む人など、ワーカーは大忙しだ。

 

すみだデイサービスは認知の進んだ方々を対象とするサービスもあり、定員は15名、一般に比較すると、人数はずっと少ないのだが、認知症が進んだ高齢者の介護は本当に大変だ。足腰がしっかりしている方は、放っておくと、どこにでも歩いて行ってしまうし、絵を描けば、クレヨンを食べてしまうし、職員に殴りかかる人までいる。古株の佐藤さんは何時もニコニコと楽しそうなのだが、認知症が相当進行しており、

 

「俺、ご飯食べたっけ?」「俺のご飯は?」が口癖で15分おきにワーカーに尋ねてくる。この佐藤さんの口癖は施設内でも有名なので、掃除のおばさんから、施設長まで、

 

「俺のご飯は?」

 

と話し掛けられれば、

 

「さっき、食べたばかりですよ」

 

と即答できる。

 

今日、初日の小口さんも大丈夫か?と少々心配していたのだが、隣に座っている、柏さんと話したり、雑誌を捲ったりと落ち着いて過ごしている様でひとまずは安心だ。

 

すみだデイサービスには大きな風呂場がある。

 

高齢者の場合は、車椅子だったり、寝たきりだったりと身体の状況が様々なので、入浴のスタイルも、手すりに捕まり自力で入浴できるタイプから、椅子に座った状態のまま機械でリフトアップして、湯船に浸かる方法、寝たきりの人は寝た姿勢のまま、バスタブに移動出来るタイプまで様々だ。

 

入浴前にはバイタルチェックと言って、血圧、脈拍、体温を必ず測る。

 

菅原さんは車椅子の利用者さんなのだが、朝から顔色が悪く、血圧もいつもよりずっと高かった。お昼ごはんを食べて直ぐに、お腹が痛いとの事で一旦ベッドに臥床してもらい、ナースが状況を確認する。

 

どうやらここ数日お通じがなく、食事を全量食べる菅原さんは便が詰まってしまっている様だ。

 

発熱も見られるので担当ケアマネに連絡を取り、自宅に帰って貰うか?と相談員と3人で話していると、菅原さんが突然嘔吐してしまった。顔色も先ほどより更に悪くなり、赤黒くなっている。

 

僕はあまりこういった状況になれていないので、ドキドキしてしまったのだが、ナースはどんな時でも冷静で、再度、脈を測り、菅原さんに話しかけている。

 

「菅原さん。菅原さん。大丈夫?気分悪い?便が詰まっちゃっているのかなー?トイレに行こうか?」

 

どうやら、先ほどトイレに行ったのだが、出そうで出ない、肛門の近くに便がある気がするのだが、出ないとの事だ。

 

「菅原さん。ちょっと、お尻見てみようか?ねっ。」

 

「室川さん、新聞紙とゴミ袋それと、ディスポ、それと、タオルね」

 

私に出来る事は無いのだが、何時も元気な菅原さんがあまりにも、苦しそうなので、ベッドの隣で菅原さんの手を握り、「大丈夫。大丈夫」と声を掛けた。

 

ナースはディスポを付け、躊躇なく、人差し指と中指を菅原さんの肛門に突っ込んだ。

 

「うっ。」

 

菅原さんの眉間に大きなシワが入り、嗚咽の様な声を上げた。

 

「菅原さん、ごめんね。下っ腹がこんなに膨れているから、やっぱり、ここに便が溜まってると思うんだー」と話しかけながら、2本の指を肛門から出し入れした。

 

缶の中の残り少ないドロップを探るように、指を動かしていたが、そのうち、うんちを掻き出し始めた。顔色一つ変えずに、指を動かしせっせとうんちを掻き出す。

 

僕は始めて見るその光景にただただ、驚いてしまい。菅原さんに声を掛けるのも忘れて、緊張のあまり、菅原さんの手を強く握った。

 

5分位経っただろうか?新聞紙には大量の便。

 

「さあ、こんな所かな?菅原さん?気分はどうかな?」

 

ナースの声に我に返った僕は必要以上に強く握っていた手を慌てて離し、菅原さんの顔を覗きこんだ。

 

先ほどまでと違い、眉間のシワはなくなり、ホッと安堵の表情である。

 

「良かったわねー。ほらこんなに出たもの。苦しかったでしょう。」

 

うんちが大量に乗った新聞紙を丸めながら、何事もなかったかの様に、

 

「はい、室川さん。ご苦労様」

 

と、行ってしまった。

 

ナースは凄い。僕には、あんな事は出来ない。仕事と割り切れば出来るか?いや、やはり、難しいと思う。




 

小口さんはと言えばサービスを開始して半月が経過して、相変わらず休まずに来所している。最近は施設内で友だちも出来、他のワーカーやナースと冗談も言い合っている様だ。

 

そんな時に担当ケアマネの橘さんから担当者会議を開くと連絡があった。

 

どうやら、介護度が決定した様だ。

 

元気一杯の小口さんを見ていると、要支援すら難しいのでは?と思ってしまう。

 

担当者会議は小口さんの来週のすみだデイサービスの利用日に打ち合わせ施設内のスペースで行う事になった。

 

その日、小口さんの帰りの送迎担当は私だったので、担当者会議のことを話してみた。

 

「小口さん。今、要支援1の暫定プランでウチに来て貰ってますが、要支援の判定が出ない場合は、利用出来なくなってしまうんですよー」

 

小口さんは温かい車内で気持ち居さそうに目を閉じたまま

 

「大丈夫」「大丈夫」とだけ僕に答えた。

 

担当者会議の当日、いつものように元気良くケアマネの橘さんがやってきた。

 

そして、僕の姿を見つけるやいなや

 

「室川さん。要介護3よ。3。私は要支援1がどうかな~って思っていたんだけど、要介護3だって。小口さんここのデイサービス気に入っているみたいだし、利用回数も増やせるし、良かったわ。」

 

ベテランの橘さんも驚きの判定結果だった様だ。正直、僕も驚いた、最近は認定のハードルが上がり、認定の取り消しだったり、要介護の人が要支援になり、デイサービスの利用回数を減らしたり、ヘルパーさんに来てもらう頻度を落としたり、と苦労している話をよく聞く。

 

その後、サービス提供者と小口さん本人も加わり、担当者会議が始まった。

 

「小口さん。おまたせしました。やっと、介護度の認定が下りました。分かりますか?小口さんは介護度3になりました。と言うことは介護保険で使えるサービスも増える事になります。デイサービスは週に3回位までは大丈夫。ヘルパーさんも週2回からもう1回増やそうか?良かったわねー」

 

施設内での小口さん情報によると、最近おばさんから若いヘルパーさんに変わったそうで、恐らくは、この女性に会える機会が増えて本当に嬉しいのだろう。小口さんの口元は完全に緩んでしまっている。

 

結局、デイサービスは週1回水曜日利用から、2回増やし月・水・金の3回になった。最近は友だちも増え、レクにも楽しそうに参加していて、時々、施設内で他の利用者さんの車椅子での移動を手伝ったり、食後に利用者さんの口を拭いてあげていたりもする。

 

それにしても、小口さんの介護度判定だけは理解出来ないまま、うやむやになってしまった。




 

その日は久しぶりに朝の運行表に僕の名前があった。

 

月末の各居宅への実績報告と逆に各居宅から届いた利用者さんの月間の予定が記載された“提供票”の入力で暫くデイフロアに顔をだしていなかった僕は運行表に小口さんの名前があり、少し嬉しかった。

 

高齢者送迎の場合、出かける間際にトイレに行きたくなったり、又、トイレで下着を汚してしまったり、通所日だと言うことを忘れてまだ、寝ていたり、すんなり行かない事は日常茶飯事だ。

 

小口さんの場合は、恐らく玄関の中で靴を履いて随分と前から待っているのだろう。僕が初日で転がり落ちた急な外階段をカンカンと歩いて登ると古くて自動化するはずも無い木製のドアが“ギギギ”と空き、隙間から小口さんが顔を出し“よっ”と声を掛けてくれる。

 

今日は、音を立てずに階段を上り、小口さんを驚かせてやろう。突然、ドアを開けたら小口さんどんな顔をするだろうか?

 

いや、待てよ、いくら元気と言っても高齢者だ、万が一の事を考えたら無茶は出来ない。とりあえず、抜き足差し足忍び足で階段を上り部屋のドアの前まで気づかれずにやってきた。

 

「さて、どうしようか?」

 

一気にドアを開け「小口さーーーん!」。とも考えたのだが、先週、玄関で転倒し大腿骨を骨折してしまった、中筋さんの事を思い出しやめた。

 

「トントン。小口さんおはようございます。すみだデイサービスの室川です。お迎えに参りました」

 

「小口さん。おはようございます」

 

 

・・・・・

 

 

少し早すぎただろうか?時計を見るが、予定の時間3分前、そんなに早くはない。

 

「小口さん、開けますよー。」ドアノブを回すと鍵はかかっておらず、すんなりドアが開いた

 

「室川さん。悪い、俺トイレに入ってんだ。悪いけど、ちょっと待ってて。奥の部屋に何時も持っていく着替えとか入ってる袋があるからよ」

 

トイレの中からくぐもった声で小口さんが答えた。

 

「はい、どうぞ。時間はまだ、大丈夫だからゆっくり用を済ませてくださいね」

 

部屋の奥を見ると小口さんが何時も大事そうに持っている読売巨人軍のマークが刺繍されたトートバッグが見えた。野球の話なんて一度もしたことがないのだが、小口さんは巨人のファンなんだろうか?

 

小さなキッチンを抜け、奥の和室にはこたつがある。トートバッグを取ろうと、右足を着地した瞬間に

 

“バキッ”と音がして、足の下で何かが弾けた?割れた様な感触があった。

 

以前、踏んでしまい事故報告を書かされた補聴器破壊事件が脳裏を横切った。補聴器は驚くほど高いのだ。

 

でも、小口さんの家に補聴器があるはずない。

 

足の下のこたつ布団を恐る恐る捲ってみると、大型のボールペン?だった。随分と太いので昔、夜店や王様のアイディアで売っていた?誰が使うのか、20色ボールペンだろうか?

 

「おまたせ、おまたせ、朝から大きいのが出ちゃってよー。水に浮くようなウンコしてるようじゃダメだよな。俺のなんか一度じゃ流れない事もあるんだよ」

 

咄嗟に割れたペンを拾い上げパンツのポケットにしまった。(隠した)

 

一瞬小口さんの視線が僕の足元に落ちた様に感じたが、ばれなかった様だ。

 

ポケットに入れてしまった手前、謝るわけにもいかず、この場はこのまま誤魔化し、後で損傷の具合を確認して修理するなり、同じものを購入するなりすれば大丈夫だろう。

 

「じゃあ、小口さん行きましょうか」

 

僕はポケットに中の大きなペンを手で弄り、大きく割れていなければ良いな。と思いながら、小口さんを送迎バスに案内した。

 

その日は送迎表に来所予定の利用者さんの記載漏れがあり、僕が急遽迎えに行くことになったり、同僚が運転する送迎車の車椅子用リフトが動かなくなったり、イレギュラーな出来事が幾つか重なり、僕はポケットの中のペンの事をすっかり忘れてしまっていた。

 

日中、小口さんとは何度となく会話をすることがあったが、不思議とペンの事を思い出すことはなかった。

 

特別大きな事故もなく、一日が無事終了し、ロッカーで同僚と年末年始だと言うのに年中無休の我が施設を嘆きながら、着替えようとポケットからロッカーキーを出した時に、床に何かが落ちコロコロと年配職員の滝井さんの足元に転がった。

 

「おっ、フラッシュビームじゃん。懐かしいなー。お前なんでこんなもん持ってるの?」

 

このオヤジは話しが面倒くさいので、慌てて手から引ったくるようにペンを取ると、ポケットの中に押し込んだ。

 

「家にあったのを間違ってポケットに入れて来ちゃった。それにしても、元旦早々の宿直って何だよー、宿直室一人寂しく明けましておめでとうございますか?」

 

話題を変えるために慌てて愚痴でごまかす。

 

「室川。元旦なら、まだマシだ。俺なんか大晦日お泊りだぞ。酒も飲めねーし、お茶に紅白は寂しすぎるだろう」

滝井さんは大の酒好きなので、さすがにシラフの大晦日には僕も同情する。




“フラッシュビーム”かー。

 

みぞれ混じりの寒空の下、自転車を走らせ自宅に着いた僕はアパートに入るなり後ろ手でドアを閉め、悴んだ手で、小口さんの家から持ってきてしまった手のひらに収まるブツをポケットから取り出した。

 

なるほど、言われてみれば、ペン先に穴は開いていないし、ペン先を押し出すレバー部分には何も無い。

 

確か早田隊員がウルトラマンに変身する時に“シュワッチ!”と言う掛け声と共に押す、赤いボタンも付いている。

 

完全に“バキッ”と音がしたので、絶対に割れていると思っていたのだが、ヒビ一つ無い様だ。

 

何でこんな物が小口さんの家にあったのだろうか?普通に考えれば遊びに来た孫の忘れ物なのだが小口さんから孫が居るなんて聞いたことがないし、仮に居たとしても、遊びに来るような部屋ではない。

 

プラスティック製のボディーの色は褪せてしまっているので、最近作られたおもちゃでなく、毎週日曜日になると日本中の男児がテレビの前に釘付けになったテレビ放映当時の物に見える。

 

ふと、お宝鑑定団では無いが、当時流行ったおもちゃの現在の値段が知りたくなり、ネットで調べてみる事にした。もしかしたらプレミアが付いているかもしれない。

 

調べて直ぐに間違いに気がついた、これはフラッシュビームでなく、ベータカプセルと言うらしい。

 

ヤフオクでも検索してみたが、安っぽいものでは数百円から、最近復刻版として発売されたものは限定販売だったらしく、プレミアがついており五万円近い値段がついている。五万円はどうかと思うが、ウルトラマン世代の僕にとって、子供時代の夢が蘇ると思えばありえない金額でも無い。。ただ、五万円とは僕の月給の四分の一である。

 

果たして、小口さんのベータカプセルはどの時代のおもちゃでオークションではどれくらいの値段がついているのか?気になったので、引き続き調べてみた。

 

小口さんのベータカプセルには少々、特徴があり、変身時に押す赤いボタンの右横に小窓があり、中に“4”の数字が見える。ボタンを押すと、数字が変わりそうな気もするのだが、万が一、押して変わってしまうと小口さんにバレてしまうので、その特徴を検索ワードに追加して再度検索してみた。

 

Googleでの検索結果を一ページ目から確認し始め、もう諦めようか?と思った十ページ目の検索結果に目が止まった。

 

“世界で唯一!本物のベータカプセル!”“信じる貴方にだけお届きします”

 

完全に怪しいサイトへの誘導である。“お届けします”が“お届きします”になっている。

 

カーソルをモニタ上のリンクURLに合わせてみると、案の定、NORTONのアラートがポップアップで表示された。フィッシングの危険が高いので、クリックしては行けないとの親切な案内だ。

 

僕のPCは更新の費用がなく、NORTONの有効期限が先月末で、切れてしまっている。

 

完全無防備状態の僕のオンボロラップトップではウイルスに伝染したら、一巻の終わりだろう。

 

このインチキ広告サイトを見た所で何が起きるわけでもなく、友人から3,000円で譲り受けたこのPCが唯一の情報源だし、馬鹿らしくなり、ラップトップを閉じ、そろそろ、お湯が溜まったであろう風呂に入ることにした。

 

 

炬燵以外に暖房器具の無い部屋で冷えきった身体が、熱い湯の中でフニャフニャと溶けていく。手足の先がジーンと痺れる感覚が子供の頃から大好きだ。

 

1時間近くPCの前でウルトラマン三昧だったので、昔の記憶が蘇ってきた。造作が雑なのか?放映スタート時のウルトラマンの顔が凸凹だった事、隊員の乗る車がやたらめったら格好良かった事、フジアキコ隊員が美人だった事。子供心にフジアキコ隊員に恋心を持っていた僕だった。

 

ベータカプセルに関してはある程度分かったが、どうして、小口さんの家にあったかは?解決しない。

 

まあ、次回来所日の送迎担当を僕に変更してもらい、迎えに行った時にバレないように置いてくれば良いだろうと無理やり話しをまとめ、風呂から上がった。

 

風呂あがりポカポカで幸せな僕の前に缶ビールが三本。発泡酒でなくビールがわが部屋にやってくるのは何ヶ月ぶりだろうか?それも、500ml缶である。

 

メシ代をケチっている今の私にこんな贅沢が出来るわけが無い。実は今日の送迎時に矢口さんからビール券を頂いてしまったのだ。

 

基本的に福祉施設では利用者さんからお金は勿論、物を貰うことは禁じられている。これはウチの施設だけで無く全国的に同じだろうと思う。

 

送迎バスの中で“ご苦労様”と言って大切そうにバッグから豆乳キャラメルを一個くれる馬場さん、今度、用意しておくからビールでも飲みに来なさいと誘ってくれる渡辺さん、机の上においてあるお菓子を幾つかくれるのだが、必ず賞味期限切れの三谷さん、矢口さんはご夫婦でデイサービスを利用しているのだが、都営のアパートに送迎で行くと、感謝感謝と言って何かしらくれる時々小さく畳んだ千円札を差し出されるのだが、現金はまずい。まずい。。。と思い、断り続けると怒りだすので仕方がなく受け取る。?受け取る?受け取らなかった?ここの部分は有耶無耶にしておこう。

 

と言うわけで目出度く48歳独身オヤジの嬉し恥ずかし真冬のビールタイムの始まり始まり。コンビニで買ってきた、キムチと魚肉ソーセージが今晩の酒のおつまみだ。

 

それにしても、この仕事に就いて酒を飲む機会が確実に減った。当初はどうしても我慢出来ずに、コンビニのアルコールコーナーの前で迷ったあげく、ワンカップを買って帰る様な日もあったが、最近は飲まないのが当たり前になってしまった。

 

今晩は久しぶりにまとまった量のアルコールを摂取している。たかが、ビールだが一人飲む酒はピッチが早く、ろくなつまみもなく、二本目を空けた位から完全に気持よくなってしまった。

 

焦点の合わない目、頭でぼんやりと思い出した事がある。今は福祉の仕事をしているが、子供の頃から作家になるのが夢だった。

 

お母さんと出かけるときにも必ずお気に入りの絵本を小脇に抱えていた。特別、文才がある訳でなく、なんとなく、何もない真っさらな原稿用紙に心から湧き出る言葉を並べ、人々を喜ばせたり、感動させたりする職業にあこがれていた。

 

たまたま、先日からサービスが始まった中島さんと言うお爺さんが昔作家だったと言う話しを聞き、僕自身の夢について思い出した。

 

今、ウチの施設に来ている高齢者は大体が80歳~90歳、中には100歳超えのスーパーお婆ちゃんもいる。

 

特養に入所している人と比較すれば、まだ、まだ、元気なのだが、自分の足だけで歩行出来る人は少なく、シルバーカー、杖、車椅子での移動の人が殆どだ。

 

彼らは一人で行きたい場所に移動する事が出来ない。寒い季節、暖かいあんまんが食べたくなってもコンビニに行くことが出来ず、桜の季節に散る花びらの下を歩く事も出来ない、新緑の季節に裸足で青々した芝の上を歩く事も出来ないのだ。




最近、自分の“残された日”を思う様になった。

 

どこかの国の芸術家の墓碑に“死ぬのは何時も他人ばかり”と刻まれていると何かの本で読んだことがある。

 

“死”は生きとし生けるもの全てに公平に必ずやってくるのだが、僕達は何となく、自分だけは死なないような気でいる。

 

満開の桜の木をあと何回みられるのだろうか、数えた事がある。

 

80歳まで生きるとして、80-48=32・・・恐らく最後の数年は自分の力だけでは外出する事も出来ないだろう。

 

ビールを飲んでいる今だって、確実に死に向かっている。

 

久しぶりにアルコールを摂取したせいか?結構、頭の中がヘビーになってきた。

 

明日の朝も早いし、哲学的な一人飲み会もお開きにして爆睡する事にした。

 

ラップトップをシャットダウンしようと、PCを開くと先ほどの怪しい検索結果が再び表示された。

 

“世界で唯一!本物のベータカプセル!”“信じる貴方にだけお届きします”

 

僕はマウスをシャットダウンのアイコンからゆっくりと移動して、少し迷って、そして怪しいリンクをクリックした。

 

色使いもデザインも滅茶苦茶のサイトが開いた。目に飛び込んでくるのは、このベータカプセルで貴方の夢が叶うと言う大きな文字。真っ赤な大きな文字がチカチカ点滅している。

 

通常こういった怪しい物販ページには、使用前使用後の写真や利用者からの喜びの声などが、びっしりと書かれているのだが、何もなく、ベータカプセルの写真と数行のキャッチコピーがあるだけだ。

 

小口さんの家から持ってきてしまった、ベータカプセルとサイト内の商品をくらべてみたが、ボディーの色、発光部のデザイン、そして小窓がついているので、恐らくこのベータカプセルが世界で唯一のベータカプセルなのだろう。

 

そして、サイトには4つの但し書きがあった。

 

1)このベータカプセルの持つ奇跡を信じる人にしか販売をしていない事。

 

2)支払いは現金前払いである事。

 

3)夢は5つまで叶えることが出来る事

 

4)使用後は燃えるごみとして処分する事が出来る事。

 

僕はこのインチキカプセルの販売価格が知りたくなり“購入する”ボタンをクリックしてみた。

 

小口さん。やられたな。。。

 

税込みで20万円。

 

そして販売終了とも書いてある。

 

年金暮らしの身で20万とは小口さんも相当なお馬鹿だ。

 

クーッと言いながら冷えっきた布団に身体を潜り込ませる。ただ、今晩は酒が入っているせいか、直ぐに幸せな瞬間がやってきた。

 

中学生の時、同じバレー部の菊ちゃんからBeatlesのAbbeyRoadを貸して貰って以来、この瞬間には必ずGolden Slumbersと言う曲を思い出す。

 

遠のいていく意識の中で、オヤッと思った事がある。

 

確かサイトの中の商品写真はボタン横の小窓の数字は“5”だったが、小口さんの数字は“4”だ。と言う事は小口さんが何かしら夢を叶える為にボタンを押し、その結果数字が5から4に変わったと言う事だろうか?

 

小口さんの夢ってなんだろう。。。。。。

 

 

 

デイサービス利用中で一番多く、タイミングによっては大事故になるのが、転倒だ。

 

骨がもろくなっている高齢者が転倒すると、骨折の危険が非常に高い。

 

転倒時に手を付けば、手首。片麻痺の人が転倒すると、腰や大腿骨と言った大きな部位の骨折につながる。治癒する力が弱い高齢者はそのまま、寝たきりになり、体力がなくなり亡くなっていくパターンが多い。

 

私ととても気が合う古橋さんも、移動は車椅子なのだが、1年位前、目の前に落としてしまったストローを拾おうとして、バランスを崩し前のめりに転倒してしまい。手首と肩を骨折してしまった。

 

昔、飲み屋を切り盛りし、女手ひとつで二人の子供を育てきった古橋さんは頑張り屋なので、人の何倍ものリハビリメニューをこなし、先月末デイサービスに復活した。

 

復活初日の利用日はたまたま、僕が朝のお迎え担当だったので、久しぶりの再開と言う事もあり、車椅子ごとハグした後、

 

「長い間のお勤めご苦労さまでした」なんて言いながら敬礼の真似をした。

 

古橋さんもふざけて、

 

「古橋静子。90歳。恥ずかしながらシャバに復活いたしました」って元気良く答えてくれた。

 

例のベータカプセルだが、小口さんの送迎担当になりアパートに行った時点でそーっと返そうと思い、何時もパンツの右側のポケットに入っている。




その日はピアノの先生がやってきて、利用者さん達と歌を歌うレクレーションだった。

 

この手のレクはワーカーとしては有難い。皆、先生の方に集中してくれるので、レクの時間は利用者さんの手がかからないのだ。

 

ワーカー達は食事をとったり、部屋の端の方で雑談をしていたりする。

 

僕は先生に向かって利用者さん達が向いている反対側のスペースで、遅い昼食を食べていた。ウチの施設は大きな厨房施設があり、出来たての食事を食べる事が出来る。基本的に利用者さんと同じメニューなのだが、結構美味しく、大盛りにもしてくれるし、最近は厨房のお姉さんも僕の顔を覚えてくれて、大盛りの上に更にてんこ盛りにしてくれる。

 

その日の昼ごはんは月に一度の郷土料理の日。この日は各県の名物料理を再現してくれる。今月は沖縄県ソーキそば。大きな豚の角煮もしっかりと乗っていて、大盛り仕様の私には角煮が3個も乗っていた。どんぶりから溢れそうな麺と格闘しながら平らげ、中国人ワーカーの久保さんが淹れてくれた紙コップのコーヒーを啜りながら元気に歌う皆を何となく見ていた。

 

小口さんも美人のピアノの先生の真ん前に陣取り満面の笑みで歌っている。

 

室内は暖房が効いているので温かいのだが、何となく入り口扉方向から冷たい空気を感じたので、目を向けた時だった。

 

?!伊藤さんが立ち上がっている。大腿骨骨折が治り退院したばかりの伊藤さんは車椅子での生活になり、介助無しで一人で立ち上がる事は出来ないはずだ。右手でベッドの柵は掴んでいるが、膝がユラユラと前後に揺れている。

 

「まずい!」と思った瞬間、伊藤さんの手が柵から離れ身体が前傾し始めた。伊藤さんの前には利用者さんのテーブルと、誰も座っていない椅子がある。このまま前方向に倒れたら、テーブルか椅子に激突してしまう。

 

咄嗟に伊藤さんの元へ!と思ったのだが、たまたま、椅子に深く座って足を組んでいて、おまけに右手はポケットのベータカプセルを握っていたので、間に合わなかった。

 

伊藤さんの身体がスローモーションの様にゆっくりと倒れ始め、皆の歌声も聞こえなくなる。

 

僕は「うぐっ」と声を出し、一瞬、全身が強張った。

 

だが、次の瞬間、伊藤さんの倒れゆく身体が体操選手の床運動ジャンプの様に自然に回転を始めた。そんなに機敏に身体が動くはずないのだが、僕の目には信じられない早さでクルッと回った様に見えた。そして、そこにあった椅子にストンとお尻から見事に着地した。

 

僕は椅子からの立ち上がりに失敗して、一瞬腰は浮いたのだが、その光景に驚いてまた、ドスンと座ってしまった。

 

一瞬聞こえなくなった皆の歌声が又聞こえ始め、僕は我に返った。

 

部屋の端で起こったこの出来事に気づいたのは僕だけだった様で皆、ピアノの伴奏に合わせて手を叩いたり歌を歌っている。

 

今のは何だったのだろうか?たまたま、何かに躓いて身体が回転したのか?

 

まあ、何しろ転倒事故にならないで良かった。

 

伊藤さんの様子を伺おうと、僕が立ち上がると、ベッドから椅子に移動した伊藤さんに気づいたワーカーの星さんが

 

「あらっ、だーれー、伊藤さんを椅子に座らせたのー?」と言いながら何事もなかったかの様に伊藤さんをベッドに移乗した。

 

伊藤さんが見事に着地した椅子、足元を確認してみたが、これといって躓く様な物はなかった。




ポケットに入っていたベータカプセルのカウンターの数字が4から3に変わったのに気がついたのは、二日後の夜だった。

 

その晩、自宅で風呂に入るときに、今日も小口さんに返せなかった、ベータカプセルをポケットから取り出した時に、僕はアッと声を出してしまった。

 

確かこの前は4だった赤い数字がいつの間にか3になっている。

 

利用者さんにうつされたのか、風邪気味だった僕は急いでいつもより熱めに沸かした風呂に首まで浸かり、何でだろう?と考えた。

 

ポケットの中でうっかりレバーを押してしまっただろか?

 

嫌、小口さんの部屋から持ってきてしまった晩、酔っていたせいもあり、軽くレバーを押してみたのだが、うっかり押してしまう様な作りではなかった。

 

風呂に浸かりながら、あれこれと考えてみたが、熱のせいで頭もボーッとしており、結局、何故数字が変わって分からずじまいで風呂から出た。

 

ここ数日の利用者さんの挨拶は「今日も寒いねー」だ。数十年に一度のシベリア寒気団が上空にあるらしく、年寄りでなくても十分に寒い。

 

風呂から上がって直ぐにポカポカのまま布団に入るつもりだったのだが、施設から、明日の担当者会議の時間変更の電話があり、余計な事まで話していたら、長引いてしまい身体はすっかり冷え切ってしまった。

 

施設に行ってから確認すれば良いやと思ったので、話の後半は適当に相槌を打ちながら、ベータカプセル弄りながら話を聞いていた。

 

「まてよ」そもそも、夢を叶える20万円のベータカプセルだ。もう数字は変わってしまったし、試しに何かお願いしてみるか?

 

今、何か欲しいものがあったか?イヤイヤ、施設で一番可愛い芳野さんとデート出来るようにお願いするか?

 

・・・・俺は何て馬鹿なこと考えてんだ、今の時代に魔法のカプセルか?しっかりしろ!そんなことだから、この歳で20万円しか貰えないんだぞ!

 

「室川!」

 

「室川!!」

 

ケアマネージャーの秋林さんの大きな声で我に帰った。

 

「室川、お前聞いてんのか!」

 

「は、はい!

 

話の後半は殆ど聞いていなかったが、電話を持つ手も完全に冷え切ってしまい。僕は適当に返事をして切り上げた。

 

コンチキショー!完全に体の芯から冷え切った!夢が叶うなら酎ハイでも飛んでこい!

 

「シュッ」

 

僕は勢いに任せてベタカプセルのボタンを押してしまった。

 

「カチッ」とか「カチン」と言った気持ちの良いクリック音を予想していた僕はあまりの情けない感触に情けなくなってしまった。

 

この音の様子は絶対に夢なんて叶うはずないや。

 

カプセルの赤い数字もしっかりと3から2になってしまっていたが、そんなことはどうでも良い様な気がして、冷え切ったまま、冷たい布団に潜り込んだ。

 

カップルだろうか?薄い窓ガラスの向こうを大きな声で話しながら歩いている。

 

女の甘ったるい声がやたらと響き、どうやらこれからお寿司を食べに行くらしい。

 

「はい。はい。寿司でも何でも食ってくれ」そんなもんもう何年も食ってないや。

 

羊が一匹、羊が二匹。の代わりに寿司ネタをボソボソと口にした。

「マグロ」

「タコ」

「イクラ」

「ウニ」

「カツオ」

 

・・・・・・・・久しく口にしていないのでたったこの程度のネタしか思いつくことが出来ず、そして僕は眠りについた。




エレキングが霞が関ビルをなぎ倒し、東京タワーを二つ折りにして東京を滅茶苦茶に破壊していた。

 

その時、空の彼方がピカッと光り、

 

🎵セブン~🎵

 

🎵セブン~🎵

 

🎵セブン~🎵

 

🎵セブン~🎵

 

🎵セブン、セブン、セブン🎵

 

ウルトラマンなのだが、僕はセブンの方が好きだったので、登場のテーマ曲はウルトラセブンだ。

 

「ドーン」地響きと共にウルトラマン地球に無事到着。

 

足元のアップから徐々にカメラは上に上に移動する。何故かモッコリしていない股間、日本人なら誰でも知っている胸のカラータイマー。

 

いよいよ、ウルトラマンの凛々しいマスクだ!

 

初代なので、マスクの造りはデコボコのはずだ!

 

「よし!地球平和の為にウルトラマン頑張れ!」

 

「エーッ」

 

首から下はウルトラスーツ。だけど、顔だけコテコテの人間。平べったい顔で満面の笑みの小口さん。

 

どうやら、ウルトラの小口さんエレキングと戦うつもりらしい。

 

足を前後に開き、中腰で両手は身体の前で戦闘態勢だ!

 

でも、顔だけ素の人間、それも態勢とはチグハグな満面の笑み。

 

「しゅわっち」掛け声もテレビの様にエコーが掛からず、少し声が震えている。

 

「しゅわーっちゅう」

 

その掛け声もチョット違いますから。。

 

右手に持っているのは、僕が部屋から持ってきてしまった?ベータカプセル!

 

「小口さん。ベータカプセルを使うのは、ハヤタ隊員がウルトラマンに変身する時に使うの。」

 

「ウルトラマンの状態で使ってどうするの!」

 

「エイ!」

 

「ヤー!」

 

「それ!」

 

「どうした!」

 

顔だけ小口さんのウルトラマンは、適当な掛け声で、ベータカプセルのボタンを何度も押し続ける。

 

しかし、既にウルトラマンに変身済みなので、何も起きるはずはない。

 

そのうち年寄りである自分の力が弱くて、ボタンが押せないと思ったのか、胸の高さにある高田ビルの屋上部分にぶつけはじめた。

 

「そりゃ!」

 

「どうだ!」

 

「そいや!」

 

『ガン、ガン』

 

『ガン、ガン』

 

『ドンドン』

 

『ドンドン』

 

 

・・・・・・・・

 

 

『ドンドン、室川!』

 

『室川!、ドンドン』

 

何だ何だ!急にリアルに煩くなったぞ。

 

『室川クーン』

 

この夜中に誰かがドアを遠慮もせずに叩いている。

 

何だ、ウルトラマン小口は夢だったか。。

 

枕元の目覚まし時計を、見ると12時20分だ。布団に入ってまだ10分しか経っていない。

 

それにしても何と変な夢だったんだろう。

 

『ドンドン』

 

そしてこの夢を強制終了したお方が夜中にドアを叩いている。

 

誰だよー。こんな時間に。

 

そもそも、このオンポロアパートを知っている人など、数人しか居ないはずだ。

 

『はいはい。』と言いながら折角温まり始めた布団から這い出して、玄関ドアを開けた。

 

「竹井さん!」

 

この人、外でお酒なんか飲むんだ。

 

酔っ払って赤い顔をした竹井さんがそこには立っていた。

 

「ヨッ、室川くん。。。」

 

お前、この寒さで良く上着着ないで大丈夫だなぁ。

 

「竹井さん。これパジャマ。寝るときに上着着ないでしょう。」

 

「おまえ、若いのにもう寝てんの?」

 

「そんなに、早くから寝てたら、介護認定下りないよ。」

 

・・・・言っていることがよく分からない。単語一つ一つは正しいけれど。

 

「まあ、何でもいーや。酒買ってきてやったぞ。沢山買ってきてやったぞ、ぜんぶ飲み干したら、お前も要支援の仲間入りだ!」

 

「ありがとうございます」今、お酒飲みたいって思ってたんですよー。」

 

「嘘つけ。寝てたくせに」

 

「この人酔ってんだか、シラフなんだかよく分からない」

 

その後、竹井さんは今まで飲んでいた飲み屋で締めに出てきた焼きオニギリについてきた、あさりの味噌汁がやたらと塩っぱかった事を延々と話し、中和、中和と水を一杯飲んで帰っていった。

 

さて、竹井さんが持ってきてくれたコンビニの袋には気前よく大量のお酒とおつまみが入っていた。

 

珍しい事も事もあるもんだ。施設ではケチで有名な竹井さんが何故突然大量のお酒を買って持ってきてくれたのか。

 

ビールにワンカップ、紙パックに入った日本酒、酎ハイまで入っている。

 

完全に目が冴えてしまったので、一杯やってから寝ることにするか!

 

竹井さんや私の世代はおつまみと言ったら、魚肉ソーセージ、イカの燻製、柿ピーが定番だがこれまた、全て入っていた。

 

明日、レシートを持ってきてお金払えなんて言わないだろうなー。

 

あり得ない差し入れに対して疑いの晴れない僕だったが、有り難く頂く事にした。

 

まずは大好きなレモン酎ハイのプルトップを開け一気に半分位喉に流し込む。

 

 

「プーッ」

 

 

冷たいけどうまい!酔いが回れば少し暖かくなるだろう。

 

魚肉ソーセージに手を伸ばした時、その横に置いてあったベータカプセルとサイズが同じ事に気が付いた。

 

僕はわざわざ立ち上がり、左手を腰に当て、右手で魚肉ソーセージを高々と上げて

 

「シュワッチ」と小さな声を上げた。

 

「なーんてね」

 

この格好悪さは、小口さん版ウルトラマン並だろう。

 

これまた好物の魚肉ソーセージのパッケージを開けながら、ベータカプセルを眺めていたが、カウンターの数字「2」が目に入った。

 

そうだ寝る前に秋林さんからの電話で頭にきてボタンを押しちゃったんだっけ。

 

小口さんに返す事を考えたらマズかったなー。

 

こんなインチキで夢が叶うはずないのに。。。

 

「酎ハイ!飛んでこい!」なんて。

 

僕は手にしていた酎ハイを喉を鳴らしながら飲んだ。

 

・・・・・えっ?

 

・・・・・嘘だろ。酎ハイ。

 

・・・・・飛んできちゃった。

 

確かにベータカプセルに酎ハイ飛んでこい!とお願いしたけれど、竹井さんが持ってきてくれたのは、偶然だろう。

 

こんなもので夢が叶うなんてあり得ない。。

 

絶対に。絶対に。

 

 

 

施設は色々な人達が利用している。

 

生涯独身を貫いた、嫌、貫きつつある人、連れ合いに先立たれ今は独居の人、夫婦揃って一緒に来ている人。

 

高齢者で夫婦揃っているパターンは少なくウチの施設は利用者の合計が160人程度いるが、5組だけだ。

 

少し前に触れたが、福岡生まれの谷口さん夫婦もそのうちの一組だ。

 

お父さんは目が悪く?何時も、めーないめーない「見えない」と言っている。なのだが見えない割に杖をつきながらもスタスタと目標に向かって一直線に歩くと言う特技を持っている。

 

お母さんはとても賑やかなキャラで送迎車の中に限らず、デイルームの中でも福岡弁でよく喋り湿りがちな環境の中でムードメーカーだ。

 

そんな谷口さん夫婦を一番最初に送迎で迎えに行った行った時の事は鮮明に覚えている。

 

車内で夫婦も話題になった時に

 

「わたしは生まれ変わってもお父ちゃんと一緒になる」と何時ものように大きな声で僕に教えてくれた。

 

結婚してどれ位経つのか分からないが、その間に戦争もあったし、決して良い時代ではなかったはずだ。それなのに、同じ伴侶を選ぶとは。。。

 

嘘や冗談ではないだろう、お母さんのニコニコとしたその顔をバックミラー越しに見ていると、涙腺の弱い僕は運転しながらウルウルしてしまった。

 

同じ都営のアパートに住んでいる木村さんも仲良し夫婦だ。

 

ご主人の峯男さんは足が不自由で車椅子に乗っている。若い頃はさぞかしオシャレだったんだろう。いつもハンチングやキャスケットを被っていてとても似合っている。

 

俗に言う、蚤の夫婦というヤツで奥様の良子さんは峯男さんよりはるかに背が高く『と言っても峯男さんは車椅子なので並んだ2人を見たことはない』背筋もまっすぐで歩くスピードも速い。