小口さんのシュワッチ!!

第1話 小口さんとの出会い

その不思議な老人に初めて会ったのは、駅前の居酒屋だった。

 

いや、居酒屋なんて呼べる店では無い。
コンクリートむき出しの床は、タバコの吸い殻や焼き鳥の串なんかが、転がっているし、どう見ても素人の手による設計ミスのカウンターは首を吊るほど高かった。
テーブルも、寅さんが旅先で入る食堂で良く見る、足が細く鉄パイプ製のタイプだった。

 

そんな店だが、朝の8時から営業をしている店内は作業服を着てくたびれた人達で何時も賑わっていた。

その日の朝、宿直明けだった僕はいつもの様にママチャリを転がして、職場から10分程度のボロアパートに帰り爆睡をする予定だった。

 

朝から眠そうな表情で商店街を一方向に行進する通勤途中のサラリーマン達の横をすり抜け、まだ、ほとんどの店のシャッターが閉まっている商店街を走っていると、何とも朝の清々しい空気とは程遠い、おっさん達のだみ声が聞こえて来た。

 

「海はヨ~ 海はヨ~でっかい海はヨ~」

 

腕時計を見ると、まだ、8時10分。
おいおい。開店10分でもう出来上がっちゃってるよ。酒じゃなくて、何か危ない物でも飲んでるんじゃないだろうなー。

 

店の前に一旦ママチャリを止めて、汚れてすりガラス状態になったガラス戸越しに中を覗いてみる。

 

外で聞こえた賑やかさの割に、店内は閑散としていて、テーブル席に僕と同じく夜通し働いたのであろうか、恐らくは先ほど騒音の発信源であるニッカポッカ姿にねじり鉢巻きの男性が二人、カウンターには完全にくたびれ果てた初老の男性が一人徳利を傾けていた。

 

異常な暑さが続いた夏が嘘だった様に12月に入り日本らしく律儀に正しい冬がやってきていた。

 

たった、5分程度自転車を漕いだだけだったが、正面からの北風で想像以上に体温を奪われ、いつも「朝から酒を飲むバカが居る」と思い店の前を通りすぎていた僕だが、その日はなんだか、店の中から誰かに「おいで、おいで」をされているような気がして通勤途中のサラリーマンの邪魔にならないよう、店の横に自転車を止めた。

 

「まっ、たまには、いいか。熱燗を一杯引っ掛けて、一人寂しく爆睡するか」

 

今どき珍しく、安っぽい木の枠に薄いガラスが入っただけの、簡単な戸を滑らせて店の中に首だけ入れる。

 

テーブル席で既に出来上がった二人組は一瞬、怪訝そうに僕を見たが、又、すぐに向き合って大声で話し始めた。
二人組の横に座ると、酒のつまみにされそうだったので、比較的安全そうな、カウンター席に腰を下ろした。

 

一つ席を空けて座っている初老の男性は聞き取れないほど小さな声でブツブツ言いながら、月桂冠と印刷された盃の酒をチビチビをやっている。
カウンターに座り、「さて」と思っていると、カウンター奥の扉が開き、店主らしい人が賑やかに入ってきた。

「おー。今朝は冷えるなー。北風小僧の寒太郎♫ってか」

何十年ぶりに聞いた。。。NHKの「みんなのうた」だっただろうか。

「おっと、いらっしゃい。」「お兄さん、ごめんなさいよ、待たせちゃったかな」

「いえ、今、来たばかりです」

「そうですか。何にしましょうか?」

「一合で良いので、燗にしてください」

「おっ。お兄さん朝から景気いいねー」

・・・・

「はい。おまち。まずは燗ね」

 

店には似つかわしくない、何とか焼き風の高そうな色の鮮やかな徳利。
小声で、おっとっと。。と独り言を言いながら、小ぶりな盃に日本酒を注ぐ。
朝から酒を飲むなんて何年ぶりだろうか?

 

唇に盃を近づけると、安酒特有の酸っぱい様な香りが鼻の奥をツーンと刺激した。
啜るように一口飲む。

思わず目を閉じた。

 

「くうー。五臓六腑に染みわたるとはこういう状態の事を言うのだろう。よく考えてみれば、早い夕飯を食べてから14時間以上も経過している」

「はい、おまたせ。お通しね。今日は、牡蠣を煮てみました」

 

おー。牡蠣の煮物とは、この親父。実は元名門店の料理長か何かだったりして。
特殊な?高度な?調理方法なのか?鮮やかなオレンジ色だ。

 

七味を少々振りかけ、一口食べてみる。
今まで食べた事のない牡蠣の味付けだ。

 

少し味付けが甘すぎるかもしれない。お醤油を掛けて食べようとした時

 

「あらららら・・・醤油は合わないでしょう。お醤油は」と店主に止められた。

「かきは飲む前に食べるといーんだよ。でも、食べ過ぎると、身体が冷えるからねー。うちの店は適量ね。適量」

「身体を冷やすのは、“柿”でしょう」

「だから、“柿を煮たのよ”」

「えっ?牡蠣じゃなくて、柿?」

「柿は普通煮ないでしょう。っていうかお通しで柿はないでしょうー」

「いやいや、店の裏の空き地に柿の木があってね。今朝、横を通ったら、“食べごろ!食べごろ!」って柿ちゃんが誘うのよ。昨日、お通し用の竹輪を注文するの忘れちゃったから、丁度いいと思って柿を煮ちゃった。」

 

オカマの真似をしているのか?小指を立てて、親父が言う。

 

「うちのお通し50円なんで、牡蠣は出せないのよー、頑張って竹輪がいい所かな」
・・・・まあ、確かに飲む前に食べると良いって聞いたことがあるから良いか・・・

一口。
そして、二口・・・・

 

「ダメだこりゃーーー」

「すみません。お新香ありますか?」

「任せてちゃぶ台。朝から何でも出来るよー。串焼きに刺し身におでん。」「そうか、煮てダメなら焼いてみるか。。。柿」

「いや、お新香ください」

 

空っ腹に何かボリュームのあるものを入れたかったが、店に入る前に財布を見たら、500円玉二枚しか入っていなかった。
みかんやバナナの煮物が出る前にさっさと帰ろう。

 

昭和時代のストーブで温まった店内で、身体がほぐれたせいかあちこちの穴が緩みオシッコがしたくなってきた。

「すみません。トイレありますか?」

「店にはないんだよねー。そこの階段をあがると突き当りにウチのトイレがあるから使ってちょうだい」

 

暖簾を手で分けて、階段の上の方を見上げると、薄暗い。

 

2階に鬼婆みたいな女房でもいたら、嫌だなーと思いつつ、そーっと音を立てないように階段を昇る。登り切ると、細長い廊下が真っ直ぐのびており、店主の言う通り奥にトイレらしき扉があった。
廊下の左側は今時珍しい、所々、ピカピカ光る砂壁。
右側は煤けた障子の戸があり、子供がふざけて開けた様な穴が沢山あいている。

 

「失礼しまーーーす。」
小さく声をかけ、そーっと歩く。

 

穴から中を覗きたいような・・ただ、もし、中にコメカミに絆創膏を貼った様なレトロな女性がいるとそれはそれで怖いので、顔は正面。目だけは思いっ切り右を向いてそーっと歩く。

 

人の気配はなさそうなので、足を一旦止めて、障子の中の方に恐る恐る顔を向けてみる。

 

窓はあるのだが、隣の建物がぴったりとくっついている為に陽が入らず室内は暗く、目が慣れるまで少し時間が掛かった。
敷きっぱなしだろうか?布団が一組あり、ちゃぶ台が一つ。「食べごろ!食べごろ!」って話しかけてきた?柿が幾つか畳に転がっていた。
窓際に背の低い箪笥があるのだが、金属製の何かが乗っていて、暗い部屋の中で鈍く光っている。

 

障子の穴にさらに顔を近づけて、目を凝らして見るとやはり、トロフィーか楯の様だ。鴨居の上には表彰状も幾つか飾ってある。
額のガラスが汚れていてオマケに文字が小さくて、はっきりは見えないのだが表彰状には『何とかコンクール特賞』とある。

トロフィーのてっぺんには、包丁を構えた様なポーズの人形飾りが付いている。
・・・と言うことはやはり、店主は只者でないな。。。

 

ただ、そんな料理人が空き地になった柿を煮るだろうか?そんな事を考えていたら、階下から

「お客さん!トイレ分かったかなー?暗かったら電気付けてよー。電気のスイッチも見えないか・・」

「はっ。はい!見えます。見えます。トイレ分かりました」

 

煤けた外観とは違い清潔なトイレで用を足し、カウンターに戻ると僕の席がずれていた。
じゃなくて、いつの間にか、初老の男性が僕の隣の席に移動していた。

「お兄さんの柿、一つ貰ったよ」

「一つ、貰った」と言うより、器には一つしか残っていなかったので「食べちゃったよ」が正しい日本語だ。

「お兄さん、若いのに働かないで、朝からこんな処で飲んでちゃダメだな。身体が動くうちは一生懸命働かなくちゃ」

しまった・・・面倒臭いのはこっちの客だったか、テーブル席に座るべきだった。。。

「お爺さん、違いますよ。さっきまで、働いていたんですよ。夜通し働いて、やっと家に帰る所なんです」

「それじゃ、あれか?あの二人みたいに、道路に穴掘ったり、旗振ったりか?」
歳の割りには太くしっかりとした指でテーブル席の二人を肩越しに指差しながらお爺さんは言った。

 

益々、面倒臭くなってきた、一気に飲んでさっさと帰ろう。

 

「いや、工事じゃなくて、介護の仕事なんですよ。分かりますか?か・い・ご」

「当たり前じゃないかー。馬鹿にしちゃいけないよー。わかるよ。かいご。あれだろ、あのー、薬局で売ってるあれだろー。昔はあれも安かったのになー」

 

120%分かっていない。
何と勘違いしているのか、確認するのも面倒臭い。

 

「違いますよー。お爺さんの様な、高齢者の世話をする仕事なんですよー。」いつの間にか、施設で利用者に話している口調になってきた。

「馬鹿にするなー!!」ゴホゴホ、うーッ、ゴホゴホ。ゴホゴホ。
急にキャパを越えた大声を出したので、身体がついていかなかったのか、お爺さんは苦しそうにむせてしまった。

 

背中をさすってあげると、少しづつ収まってきた。

 

「お兄さん、さすが、介護のプロ!」

「なんだー、お爺さん介護知っているんじゃ無いですかー。」

「まあね」

「ワシはまだまだ、元気だから、あんた達の世話になるのは当分先の話かな」

「お爺さん、歳は幾つですか?」

「76歳、いや、77か?まあ、大体それ位」

「そうですか、75歳以上になると、後期高齢者と言って、身体や生活の状況に応じて、介護の色々なサービスが受けられるんですよ、判定員による審査はありますけどね」

「どこか身体で悪いところはありますか?」

「いや、ワシは、毎日これで身体の消毒をしているから健康そのもの」
そう言って、盃を顔の高さに上げて、嬉しそうに笑い残っていた僅かな日本酒を一気に飲み干した。

そう言えば、隣に座って見ると、肌の艶は良いし、盃を持つ手の震えもなく、元気な様だ。

「まあ、そのうちに兄ちゃんの世話になるかもしれないから、一杯奢っちゃおうかな!」

「いや、いや、いーですよ。お爺さん」

「だから、爺さんじゃないって、年寄り扱いするなって」

「親父、熱燗もう2、3本つけて串焼きと、お刺身の美味しいところ、季節だからカキフライも頼んじゃおうかな、おっと、柿を揚げちゃダメだよ、牡蠣ね。かーき。」

「いやいや、ダメですよ、僕、今日はお金あんまり持っていないし、初対面のお年寄りに奢ってもらっちゃ・・・」

「だから、年寄り扱いするなって」

「まあ、いーじゃ無いですか。せっかくだから、ご馳走になっちゃいなさいよ」
店主はそう話しながら、無駄のない見事な包丁さばきで、刺身を切り始めた。

 

それからは、この老人の戦地での武勇伝話しが始まり、現地の女性と恋に落ち、友人をたくさん失いそして終戦を迎えたあたりで、徹夜の疲れもあり僕は撃沈してしまった。

 

どれくらい、時間が経っただろうか、どうやら、カウンターに突っ伏して熟睡してしまった様だ。
ガラスの外のサラリーマン達の影はなくなり、その代わりにオバサンたちの井戸端会議の大声が聞こえた。

 

カウンターの隅に乗っかっている時計を見ると11時45分。
店に入ったのが8時過ぎだから、いつの間にか4時間弱も経ってしまった。

 

右頬を下にカウンターに突っ伏して寝ていたので、首が痛い。いつの間にこんなに飲んだのか?
目の前には映画やテレビでよく見るありがちな光景。。。お調子が何本も転がっている。

 

カウンターの向こうでは店主が足を組んで熱心にスポーツ新聞の競馬欄を読んでいた。

「す、すみません。夜勤明けだったので、爆睡してしまいました。えー。隣に座っていたお爺さんは?」

「帰ったよ。」

「えっ?」

「もう、1時間位経つかなー」

「そうですかー。」

 

見ず知らずの人、それも、年金暮らし?の老人にご馳走になってしまうとは、なんてバチあたりだろうか。
寝違えたのか、首の後ろがズキズキするし、中途半端に寝てしまったので、余計眠くなってしまい、頭もフラフラだ。

 

「どうもご馳走さまでした」と僕。

「えっ?」と店主

「はっ?」と僕

「ちょっと待ってね。

 

店主が電卓を叩き始める。

なんだか、とっても、嫌な結末を迎えそうな雰囲気だ。

「はい、毎度ありで、7,200円」

・・・やられた。。。

それにしても、お通しが500円の店で7,200円とは、この店主もグルか?

 

「このお調子の本数で7,200円は高くないですか?」
1000円しか持っていないので、少々恥ずかしかったが尋ねてみた。

 

「あーお連れさんがね、今晩の酒の肴にするからって、刺し身の盛り合わせも持って帰ったのよ」

 

あのクソジジイ。ふざけやがって。貧乏人にたかるとは。ウチのデイサービスを利用する様な事があったら、昼ごはんを毎食ペースト*にしてやる!
**高齢者の食事形態は咀嚼や嚥下の能力によって、通常、刻み、極刻み、ペースト等に分けられる。今回の場合は嫌がらせと言う意味のペースト**

 

「ここにいた、お爺さん、よく来るんですか?」

「たま〜にね。二ヶ月に一度くらいかな」

 

大した会話もしないので、名前も住んでいる場所も分からないとの事。
その後は、店主に500円玉二枚しか入ってない財布を広げて見せたり、事情を説明して、、、結局、免許証を人質に置いて自宅までお金を取りに行く羽目になった。中途半端に飲んだ身体は自転車の往復で冷えきってしまった。

 

そう。これが、このお爺さんとの出会いだ。

 

第2話 小口さんとの思わぬ再会

東京の墨田区にある、高齢者向けの施設が僕の職場だ。
建物の中に特別養護老人ホームと通所サービスが入っている。
特別養護老人ホームは一般にいうところの老人ホーム、通所サービスはデイサービスだ。
ちなみに、僕はデイサービスのワーカー。介護業界ではスタッフとは呼ばずに、『ワーカー』と呼ばれることが多い。
デイサービスは高齢者版託児所の様なものだ。

 

朝、送迎用のワンボックスで利用者さんの自宅に迎えに行き、施設で歌を歌ったり、映画を見たり、食事をして過ごす、時々落語家さんやバイオリンの先生が来たりもする。
まだまだ、元気な人から車椅子が必要な人、一人では食事も出来ずトイレに行けない人もいるので、対応するワーカーは大変だ。

 

ワーカーの仕事範囲はとても広い、高齢者送迎の為に車を運転したり、食事やトイレの介助、高齢者宅にお弁当の配達も行うし、相談員業務も行ったりする。

 

その日は、天気予報通り、前日の夕方からの雨が残りとても寒い朝だった。こんな日は、お年寄りもわざわざ迎えの車に乗って外出するのが面倒臭いのか?デイサービスを休む利用者さんが多い。通常より2割位少ないので、お迎えの運行も楽勝だ。

 

夕方の送りも余裕!と思っていると昼ご飯の後に、相談員の小林さんから声をかけられた

 

「悪いけど、夕方の送迎前、新規利用者さんの担当者会議に行ってくれる?」

 

おいおい、折角、余裕の一日なのに勘弁してくれよ。どうして、突然なのかは分かっている。
小林さんは悪い人ではないのだが、しょっちゅう予定をすっぽかす。
なので、どうして突然なのかはあえて尋ねずに答えた。

 

「了解しました」

 

小林さんから渡された簡単な地図を元に新規利用者さんの家に向かう。
住所を見る限り、僕の住むアパートからとても近い。

 

担当者会議というのは、利用者と担当のケアマネージャー、携わるサービス提供者(デイサービス、ヘルパー、介護用品レンタル会社等)が集まり、利用者の生活をどの様にサポートしていくか?を話し合う場だ。

掃除や洗濯など自分で出来ない場合はヘルパーさんが来て対応してくれる。又、訪問入浴や介護用ベッドや車椅子の貸出、トイレに手すりをつけたり、ベッドに落下防止用の柵をつけたりと、高齢者が生活していくにあたり、様々なサービスが受けられる。

僕の担当するデイサービスは施設で一日お年寄りを預かる事により、家族の介護負担の軽減や自宅で入浴が難しい為、施設での入浴、又、独居老人の社会交流が一般的な目的だ。

 

サービス利用にあたっては介護度がポイントになる。
対象となる高齢者は介護度設定の為のテストを受け、介護の必要の低い方から【要支援1・2】【要介護1・2・3・4・5】の7段階に分けられる。
簡単に説明すると介護度により、一定のポイントが付与される様なイメージ。
そのポイントで車椅子をレンタルしたり、デイサービスを利用したりする。介護度が高いほど与えられるポイントが大きいので、よりたくさんのサービスを利用する事ができる。

 

介護保険は利用者の負担が1割で残りの9割が保険者の負担となる、僕の施設の場合は9割を墨田区が負担する事になる。高齢者の数が増える一方で保険者の財源には限りがあるので、介護度の認定についても最近は判定が厳しくなってきた。

 

到着した2階建ての建物には【金山荘】と言う表札がかかっており、少なく見積もっても築50年は経過してそうな、オンボロアパートだった。ほとんど錆びきった鉄製の外階段には波板の屋根が張ってあり、雨樋からは立派な雑草があちこちに生えている。

小林さんから貰った地図には部屋番号の記載がなかったので、“小口正夫”さんの部屋を探さなくてはならない。各部屋のドアには表札などなく、恐らくは住んでいる人達が勝手に書いたのであろう、ドアの上部に手書きで名前が書いてある。

2階の一番奥にその部屋はあった。ドアの前に立つと中から数人の話す声、笑い声が聞こえてきた。恐らくは、ケアマネージャーさん達が既に到着をしているのだろう。

木目のデコラ板が貼られたドアをノックすると、中から中年の面倒見の良さそうな女性がドアを開けてくれた。典型的なケアマネキャラクターだ。

「こんにちは、すみだデイサービスから参りました室川です。「遅くなりました」まだ、約束の時間まで5分あるが、僕は何時もこの様に挨拶をする事にしている。

「どうも、ご苦労さまです。皆さんお揃いですよ」

市松模様の板張りのキッチンの向こうに6畳程度の部屋があり、介護業者さんらしい人が2人、その向こうに敷いてある布団に男性の高齢者があぐらをかいて座っている。

「お邪魔しまーす。。。」
この家は大丈夫そうだ。。。

と言うのも、独居でまだヘルパーさんが入る前だと、ゴミ屋敷の様な状況に遭遇する事が多い。靴を脱がずにそのまま入りたくなる様なケースも多く、何時だったか、太った福祉用具の担当者が腐った床を踏み抜いてしまった事もある。それ以来、バッグには使い捨ての靴下の上から履けるナイロン製の靴下を入れてある。

「それでは始めましょうか。本日は、みなさん忙しい所、小口さんの担当者会議に参加して頂きありがとうございます」

「最初に皆さんをご紹介しますね。こちらが、福祉用具の丸山さん、そちらの女性が訪問ヘルパーの田中さん、そして、こちらがすみだデイサービスの室川さんです。 私は小口さんの担当ケアマネの橘です」

「小口さん、これから担当者会議と言うのを始めるので一緒に話しを聞いていてくださいね」

「あれ?小口さんさっきまで、あんなにたくさん喋っていたのに、急に黙りこんじゃってどうしたのかな?」

俯いた小口さんの顔を橘さんが覗き込む。

「いや、大丈夫。始めていーよ。」

ゴホン。
小口さんが下を向いたまま一つ咳き込む。

「今、介護認定結果の連絡待ちです。おそらく、要支援の1は出ると思うのですが、もし、ダメだったら再申請をしますね。」

「現段階では暫定のプランで進めさせて頂きます。」

ケアマネの話しを聞きながら、フェイスシートに目を通す。昭和12年生まれの76歳。一昨年に奥様を亡くしてからはこのアパートに一人住まいだ。ここ最近認知症の気配がある書かれている。

パートナーを失ってから認知症が発症するケースは多い。独居の高齢者が認知症になると、掃除、洗濯は勿論、食事すら満足に取ることが出来ずに深刻なケースになる事も多い。この小口さんも同じだろうか。

「小口さんは下肢筋力が低下し始めて、トイレへの移動が大変になってきたので、和式から洋式に便器の交換と手すりの設置を行います。」

「丸山さん、工事の日程などは会議の後で打ち合わせさせてください」

丸山はメモを取りながら、下をむいたまま「はい」と答えた。

ヘルパーさんは基本的に週に2回。食べ物の買い出しとお部屋の掃除をお願いします。

「小口さん、これから月曜日と木曜日、お手伝いに来ますからね。10時少し前にくるので、ピンポンが鳴ったら鍵を空けてくださいね。分かりましたか?小口さん、小口さん、顔を見せてくれるかな?」

「うん。分かったよ」
小口さんは顔を上げずに小さく頷いた。

「小口さん、こちらは、これから週に1回お世話になるデイサービスの室川さん。デイサービスわかるかな?朝、送迎車で迎えに来てくれるからね。むこうに着いたら、お友達と歌を歌ったり、ご飯やおやつを食べたり、お風呂に入ったり。。楽しいですよ」とケアマネさんが紹介してくれる。

「小口さん、ほら、室川さんにお顔を見せてあげて、ご挨拶しましょう。ねえ、小口さん」

隣に座っていたヘルパーの田中さんにも肩を叩かれて、渋々と少しだけ顔を上げ、目だけをこちらに向けた。

「こんにちは小口さん、すみだデイサービスの室川です。これから、毎週水曜日の9時に迎えに来ますからね。施設で楽しく過ごしましょうね。」

「ね、小口さん」

小口さんが恥ずかしように顔を少しずつ上げ始めた。目が僕の膝と胸のあたりを行ったり来たりしている。
小口さんの顔がほぼ正面を向いた。

あれ?小口さん?爺さん?小口さん?どこかで会った?

あっ!そうだ。居酒屋で支払いを人に押し付けて飲み逃げした爺さんだ。カウンター席では右横顔だけだったが、この妙に愛嬌のある顔はあの爺さんに間違い無い。

「初めまして。小口です。」

小口さんは少し顔を赤くして伏し目がちに僕に挨拶をした。
ワ~。小口さんが又、喋った~。ケアマネの橘さんが嬉しそうに、笑った。

担当者会議は、その後、日程や既往歴等の説明がケアマネからあったが、飲み逃げ犯人に偶然遭遇した戸惑いと、週に一度利用者として接しなければならない何とも不思議な気持ちで、あまり頭には入らずに、

「小口さん、これから宜しくお願いしますねー」と皆で当たり前の挨拶をして帰ってきた。

 

 

第3章 サービス開始

朝、出社するとまずその日の運行予定が組まれた運行ボードを確認する。
車椅子の利用者さんが多いか?ステップ乗車と呼ばれる自力歩行が可能で車のシートに座っての乗車ができるか?その日によってルートも変更になるので、細心の注意が必要になる。

その日は例の小口さんの初日利用日だった。初回面談に行ったと言う理由で僕の朝の運行予定に小口さんの名前があった。

お迎えは小口さんを含めて合計3名、小口さんだけステップ乗車で他の2名は車椅子だ。

初回の利用は迎えに行った際に行きたくないと言い出したり、乗車までに予想以上の時間がかかる事が良くあるので、小口さんのアパートにも早めに行くことにした。

アパートの前の道はさほど広くないので、出来る限り道路の端に車を停めて、小口さんの部屋に向かう。

先日来た小口さんの部屋。ミミズが這ったような下手くそな平仮名、マジックか何かで、「お、ぐ、ち」と書いてある。

先日はケアマネ初め、色々な人がいたので、居酒屋の一件を尋ねる事が出来なかったが、そのうち、タイミングを見計らい聞いてみようと思う。でも、フェイスシートには認知症の発症も書いてあったので、尋ね方にも注意をしなくては行けない。

「小口さん。お早うございます。すみだデイサービスの室川です。お迎えに参りました。」

「小口さん」

軽くてドアを叩く。

「お」
「ガチャガチャ」

ドアの向こうで鍵を開けている様な音がして、ドアがゆっくりと開いた。

「おはよう、お兄ちゃん」

「お早うございます。今日からスタートですね。宜しくお願いします。」

「うん」

利用初日には転倒などの何かしら、予期せぬトラブルが良く起きるのだが、今日は今のところ順調だ。
問題は、建築当時に人間工学と言う単語がなかったのか?油断をすると僕でも転げ落ちそうな、急な鉄製の外階段だ。
手すりもあるのだが、赤黒いサビが大量に浮いており、掴まって下に降りる頃にはおそらく手のひらはサビだらけになっていることだろう。

「小口さん。階段気をつけてくださいね。初日の朝から階段転落事故でもあったら、大変ですからね。」

「あー。慣れてるから大丈夫だ。」

万が一、小口さんが転がっても受け止められるように、私は小口さんの2~3段先を後ろ向きで下り始めた。小口さんの手を取ってゆっくりと下りるべきなのだが、僕自身、両手で手すりを掴まないと転がり落ちてしまいそうだ。

小口さんは言葉とおり、本当に慣れているのか?手すりを掴まずに、ドンドン下のステップに足を進める。

「小口さん、時間はありますからゆっくりで大丈夫ですよ。ゆっくりで。」

そう話している間にも小口さんのスピードは早くなり、僕は自分が降りるのに必死になってしまった。
最後の数段は小口さん信じられない事に1段飛ばしで降り始めた。僕は悲しい事に小口さんのペースについていけず、残り3段の所で後ろ向きのまま、見事に転がってしまった。

ひっくり返った所に植え込みがあり、おしりから突っ込む形になったので、怪我はしなかったが何ともみっともない姿のままで小口さんを見上げて『エへへへ』と笑った。

小口さんは最後の1段も見事に着地をして、ドリフの仲本工事さんが体操でフィニッシュを決めた様に、両手を高く上げ、嬉しそうに「ウルトラC!」と満面の笑みで声を上げた。

まあ、元気に越したことはないのだが、この分では、要支援の判定が出ることはないだろう。その辺を俯いて歩いているサラリーマンなんかよりよっぽど元気だ。

ワンボックのシートに腰掛けてもらい、私も運転席に座ったのだが、思ったより植え込みの木の幹が太くしっかりとしており、腰から背中にかけてヒリヒリと痛む。
これが利用者さんの事故だったら、ヒヤリハット、嫌、完全に“じこほう”(事故報告)だ。僕自身のかすり傷で済んだのだから良しとしておこう。

送迎途中、車内での利用者さんへの対応も結構神経を使う。

タクシーも同じだと思うが、こちらは対象が高齢者なので認知症が進んでいれば会話が全く成り立たないし、そもそも話しかけられるのが嫌いな方もいる、かと思えば、一般の人には見えない“何か”が見えてしまうのか?
「おかーさーん」「おかーさーん」とうつろな目で宙を見つめ叫び続けたり、
「だから嫌だって言ってるでしょ。離してよ!」と車内でずーっと意味不明な言葉を繰り返す人もいる。

さて、小口さんの場合はどうだろうか?と思っていたが、次の利用者さんがすぐ隣のブロックなので、話す間もなく到着してしまった。

「小口さん。少し待っていてくださいね」

本来デイサービスは利用者さんの安全等を考慮して、ワーカーは二人一組で乗車するのだが、ウチの施設は人件費削減の為に運転手1名での運行だ。利用者さんが高層住宅住まいだったり、シルバーカー利用で乗車までに時間がかかる場合は、車内でトラブルが起きないだろうか?心配になる。

幸い、到着した森さん宅は、玄関に車を横付け出来るので、その辺は安心だ。
玄関のブザーを押し、元気よく声をかける。

「森さん。おはようございます。すみだデイサービスの室川です。お迎えに参りました。」

何時もはおそらく玄関で靴を入って待っていてくれるのだろう、声掛けと同時にドアがひらくのだが、その日は応答が無い。

出かける間際にトイレにでも行きたくなったのだろうか?少し間を置いて、再度ブザーを押して見る。中から
「はーい」と声がした。

送り出しを手伝ってくれる娘さんの様だ。

ドアが開き、娘さんがサンダルを引っ掛けて、出てきた。
森さんも50年前に会いたかったなーと思うほど、「昔の美人」なのだが、娘さんも美人だ。何度か見かけたことのあるお孫さんも美人だったので、美人家系なのだろう。

「あれ?ケアマネさんに、今日はデイサービス休みますって、連絡をしておいたのですが。。。今日は通院日なんですよ」

ケアマネから施設に連絡があったかは?確認してみないと分からないが、恐らくは、ウチの施設の連絡ミスだろう。休みの連絡をしていたのに、迎えに行ってしまい、顰蹙を買うことが多い。

「失礼しました。通院と言う事で了解しました」

「金曜日は通常の利用で大丈夫ですね?」一応念の為に確認をしておく。
車に乗るとすぐに施設に電話を掛け、食札を外して貰うようにお願いをする。
この連絡を怠ると、来所しないのに、食事を用意してしまい、今度は栄養士さんの顰蹙を買うことになる。

さて、困った事態になってしまった。

森さんが休みになってしまった為に、次のお宅のお迎え時間まで10分以上ある。あまり早く到着しても、それはそれで迷惑なので、何処かで時間を潰す必要がある。
小口さんと社内で二人きり、どうやって時間を過ごせば良いのだろう。
とりあえず、ラジオのスイッチを入れ歌謡曲や時事問題の番組でもあれば良かったのだが、朝からやかましいラップ音楽だったり、ガチャガチャと煩い放送ばかりなので、切る。

社内は小口さんと二人。静寂が妙に重い。
こんな時は、まず、お天気の話題だ。

「あんなに暑かったのに、朝晩はすっかり寒くなりましたねー。」

「・・・・・」

「車の中、寒くないですか?」

“強”でヒーターを入れているので、汗ばむほど暑かったのだが、一応、話しかけてみた。
好きな食べ物を聞こうと、口を開こうと思った時、小口さんの口が先に開いた。

「お兄さん。名前はなんだっけか?」

「室川です」

「そうかー室川さん。この間は居酒屋で悪かったなー。あの時のお兄さんだよな」

小口さんの方から切り出すとは思わなかったので、一瞬、驚いたが出来るだけ平静を装い、出来るだけ落ちつた低いトーンで
「はい」と答えた。

「俺も、何時もあんな事をやっている訳じゃないんだよ。あの時はたまたまと言うか、魔が差したと言うか?ほら、良く言うだろう。出来心って言うやつだな。そのうち、埋め合わせするから勘弁してくれな」

逃げられた時には爺さんを見つけて、とっちめてやろうと思ったが、面と向かって詫びられると、そうも行かずに

「まあ、いーですよー」と曖昧な返事をした。

フェイスシートには認知症に関する記述もあったが、車内で話している限りでは、全く感じられない。恐らくはウチの施設利用者さんの中でも、一番元気だろう。
その後、3人目の利用者さんを迎えに行った後、紅白歌合戦の話しをしながら、無事施設に到着した。

すみだデイサービスの利用者の定員は55名もいるので、フロアも広い。その日によって、休む人も多かったりするのだが、定員目一杯の55名で埋まると、杖を忘れてトイレに行こうと歩き始めてしまう人、ワーカーの目を盗んで勝手に帰ろうとする人、利用者さんの為に設置してある、新聞や雑誌を自分のバッグにせっせと詰め込む人など、ワーカーは大忙しだ。

すみだデイサービスは認知症の進んだ方々を対象とするサービスもあり、そちらは定員は15名、一般と比べると、人数はずっと少ないのだが、認知症が進んだ高齢者の介護は本当に大変だ。足腰がしっかりしている方は、放っておくと何処にでも歩いて行ってしまうし、絵を描けば、クレヨンを食べてしまうし、職員に殴りかかる人までいる。

古株の佐藤さんは何時もニコニコと楽しそうなのだが、認知症が相当進行しており、
「俺、ご飯食べたっけ?」「俺のご飯は?」が口癖で15分おきにワーカーに尋ねてくる。この佐藤さんの口癖は施設内でも有名なので、掃除のおばさんから、施設長まで、

「俺のご飯は?」
と話し掛けられれば、
「さっき、食べたばかりですよ」
と即答できる。

今日、初日の小口さんも大丈夫か?と少々心配していたのだが、隣に座っている、柏さんと話したり、雑誌を捲ったりと落ち着いて過ごしている様でひとまずは安心だ。

 

第4話 不可解な介護判定

すみだデイサービスには大きな風呂がある。
高齢者の場合は、車椅子だったり、寝たきりだったりと身体の状況が様々なので、入浴のスタイルも、手すりに捕まり自力で入浴できるタイプから、椅子に座った状態のまま機械でリフトアップして、湯船に浸かる方法、寝たきりの人は寝た姿勢のままバスタブに移動出来るタイプまで様々だ。

入浴前にはバイタルチェックと言って、血圧、脈拍、体温を必ず測る。

菅原さんは車椅子の利用者さんなのだが、朝から顔色が悪く、血圧もいつもよりずっと高かった。お昼ごはんを食べて直ぐに、お腹が痛いとの事で一旦ベッドに臥床してもらい、ナースが状況を確認する。

どうやらここ数日お通じがなく、食事を全量食べる菅原さんは便が詰まってしまっている様だ。

発熱も見られるので担当ケアマネに連絡を取り、自宅に帰って貰うか?と相談員と3人で話していると、菅原さんが突然嘔吐してしまった。顔色も先ほどより更に悪くなり、赤黒くなっている。

僕はあまりこういった状況になれていないので、ドキドキしてしまったのだが、ナースはどんな時でも冷静で、再度、脈を測り、菅原さんに話しかけている。

「菅原さん。菅原さん。大丈夫?気分悪い?便が詰まっちゃっているのかなー?トイレに行こうか?」

どうやら、先ほどトイレに行ったのだが、出そうで出ない、肛門の近くに便がある気がするのだが、出ないとの事だ。

「菅原さん。ちょっと、お尻見てみようか?ねっ。」

「室川さん、新聞紙とゴミ袋それと、ディスポ(使い捨て手袋)、それとタオルね」

私に出来る事は無いのだが、何時も元気な菅原さんがあまりにも、苦しそうなので、ベッドの隣で菅原さんの手を握り、「大丈夫。大丈夫」と声を掛けた。
ナースはディスポを付け、躊躇なく、人差し指と中指を菅原さんの肛門に突っ込んだ。

「うっ。」

菅原さんの眉間に大きなシワが入り、嗚咽の様な声を上げた。

「菅原さん、ごめんね。下っ腹がこんなに膨れているから、やっぱり、ここに便が溜まってると思うんだー」と話しかけながら、2本の指を肛門から出し入れした。
缶の中の残り少ないドロップを探るように、指を動かしていたが、そのうち、“うんち”を掻き出し始めた。顔色一つ変えずに、指を動かしせっせと“うんち”を掻き出す。

僕は始めて見るその光景にただただ驚いてしまい、菅原さんに声を掛けるのも忘れて、緊張のあまり、菅原さんの手を強く握りしめてしまった。
5分位経っただろうか?新聞紙には大量の便の山。

「さあ、こんな所かな?菅原さん?気分はどうかな?」

ナースの声で我に返った僕は必要以上に強く握っていた手を慌てて離し、菅原さんの顔を覗きこんだ。

先ほどまでと違い、眉間のシワはなくなり、ホッと安堵の表情である。

「良かったわねー。ほらこんなに出たもの。苦しかったでしょう。」

うんちが大量に乗った新聞紙を丸めながら、何事もなかったかの様に、

「はい、室川さん。ご苦労様」

と、行ってしまった。
ナースは凄い。僕には、あんな事は出来ない。仕事と割り切れば出来るか?いや、やはり、難しいと思う。

小口さんはと言えばサービスを開始して半月が経過して、相変わらず休まずに来所している。最近は施設内で友だちも出来、他のワーカーやナースと冗談も言い合っている様だ。

そんな時に担当ケアマネの橘さんから担当者会議を開くと連絡があった。
どうやら、介護度が決定した様だ。

元気一杯の小口さんを見ていると、要介護なんてとんでもなく、要支援すら難しいのでは?と思ってしまう。

担当者会議は小口さんの来週のすみだデイサービスの利用日に施設内の打ち合わせスペースで行う事になった。

その日、小口さんの帰りの送迎担当は私だったので、担当者会議のことを話してみた。

「小口さん。今、要支援1の暫定プランでウチに来て貰ってますが、要支援の判定が出ない場合は、利用出来なくなってしまうんですよー」

小口さんは温かい車内で気持ち居さそうに目を閉じたまま
「大丈夫」「大丈夫」とだけ僕に答えた。

担当者会議の当日、いつものように元気良くケアマネの橘さんがやってきた。
そして、僕の姿を見つけるやいなや

「室川さん。要介護3よ。3!。私は要支援1が出るかどうかな~って思っていたんだけど、要介護3だって。小口さん、ここのデイサービス気に入っているみたいだし、利用回数も増やせるし、良かったわ〜。」

ベテランの橘さんも驚きの判定結果だった様だ。
正直、僕も驚いた、最近は認定のハードルが上がり、認定の取り消しだったり、要介護の人が要支援になり、デイサービスの利用回数を減らしたり、ヘルパーさんに来てもらう頻度を落としたり、と苦労している話をよく聞く。

その後、サービス提供者と小口さん本人も加わり、担当者会議が始まった。

「小口さん。おまたせしました。やっと、介護度の認定が下りました。分かりますか?小口さんは介護度3になりました。と言うことは介護保険で使えるサービスも増える事になります。デイサービスは週に3回位までは大丈夫。ヘルパーさんも週2回からもう1回増やそうか?良かったわねー」

施設内で、こっそり小口さんに教えて貰った情報によると、最近おばさんから若いヘルパーさんに変わったそうで、恐らくは、この女性に会える機会が増えて本当に嬉しいのだろう。小口さんの口元は完全に緩んでしまっている。

結局、デイサービスは週1回水曜日利用から、2回増やし月・水・金の3回になった。最近は友だちも増え、レクリエーションにも楽しそうに参加していて、時々、施設内で他の利用者さんの車椅子での移動を手伝ったり、食後に利用者さんの口を拭いてあげていたりもする。

それにしても、小口さんの介護度判定だけは理解出来ないまま、うやむやになってしまった。

 

第5話 バキッ!と音が!フラッシュビームを壊しちゃった。

その日は久しぶりに朝の運行表に僕の名前があった。
月末の各居宅への実績報告と、逆に各居宅から届いた利用者さんの月間の予定が記載された“提供票”の入力で暫くデイフロアに顔を出していなかった僕は運行表に小口さんの名前があり、少し嬉しかった。

高齢者送迎の場合、出かける間際にトイレに行きたくなったり、又、トイレで下着を汚してしまったり、通所日だと言うことを忘れて寝ていたり、すんなり行かない事は日常茶飯事だ。

小口さんの場合は、恐らく玄関の中で靴を履いて随分と前から待っているのだろう。

僕が初日に転がり落ちた急な外階段をカンカンと音を立て上ると、古くて自動化するはずも無い木製のドアが“ギギギ”と開き、隙間から小口さんが顔を出し“よっ”と声を掛けてくれる。

今日は、音を立てずに階段を上り、小口さんを驚かせてやろう。突然、ドアを開けたら小口さんどんな顔をするだろうか?
いや、待てよ、いくら元気と言っても高齢者だ、万が一の事を考えたら無茶は出来ない。とりあえず、抜き足差し足忍び足で階段を上り部屋のドアの前まで気づかれずにやってきた。

「さて、どうしようか?」

一気にドアを開け「小口さーーーん!」。とも考えたのだが、先週、玄関で転倒し大腿骨を骨折してしまった、中筋さんの事を思い出しやめた。

「トントン。小口さんおはようございます。すみだデイサービスの室川です。お迎えに参りました」

「小口さん。おはようございます」

・・・・・

少し早すぎただろうか?時計を見るが、予定の時間3分前、そんなに早くはない。

「小口さん、開けますよー。」ドアノブを回すと鍵はかかっておらず、すんなりドアが開いた。

「室川さん。悪い、俺トイレに入ってんだ。悪いけど、ちょっと待ってて。奥の部屋に何時も持っていく、着替えとか入ってる袋があるからよ」

トイレの中からくぐもった声で小口さんが答えた。

「はい、どうぞ。時間はまだ、大丈夫だからゆっくり用を済ませてくださいね」

部屋の奥を見ると小口さんが何時も大事そうに持っている読売巨人軍のマークが刺繍されたトートバッグが見えた。野球の話なんて一度もしたことがないのだが、小口さんは巨人のファンなんだろうか?

小さなキッチンを抜け、奥の和室にはこたつがある。トートバッグを取ろうと、右足を着地した瞬間に
“バキッ”と音がして、足の下で何かが弾けた?割れた様な感触があった。

以前、踏んでしまい事故報告を書かされた補聴器破壊事件が脳裏を横切った。補聴器は安月給の私では弁償出来ないほど高いのだ。

でも、小口さんの家に補聴器があるはずない。

足の下のこたつ布団を恐る恐る捲ってみると、大型のボールペン?だった。随分と太いので昔、夜店や王様のアイディアで売っていた?誰が使うのか、20色ボールペンだろうか?

「おまたせ、おまたせ、朝から大きいのが出ちゃってよー。水に浮くようなウンコしてるようじゃダメだよな。俺のなんか一度じゃ流れない事もあるんだよ」

咄嗟に割れたペンを拾い上げパンツのポケットにしまった。(隠した)

一瞬小口さんの視線が僕の足元に落ちた様に感じたが、ばれなかった様だ。

ポケットに入れてしまった手前、謝るわけにもいかず、この場はこのまま誤魔化し、後で破損の具合を確認して修理するなり、同じものを購入するなりすれば大丈夫だろう。

「じゃあ、小口さん行きましょうか」

僕はポケットに中の大きなペンを手で弄り、大きく割れていなければ良いな。と思いながら、小口さんを送迎バスに案内した。

その日は送迎表に来所予定の利用者さんの記載漏れがあり、僕が急遽迎えに行くことになったり、同僚が運転する送迎車の車椅子用リフトが動かなくなったり、イレギュラーな出来事が幾つか重なり、僕はポケットの中のペンの事をすっかり忘れてしまっていた。

日中、小口さんとは何度となく会話をすることがあったが、不思議とペンの事を思い出すことはなかった。

特別大きな事故もなく、一日が無事終了し、ロッカーで同僚と年末年始だと言うのに年中無休の我が施設を嘆きながら、着替えようとポケットからロッカーキーを出した時に、床に何かが落ちコロコロと年配職員の滝井さんの足元に転がった。

「おっ、フラッシュビームじゃん。懐かしいなー。お前なんでこんなもん持ってるの?と拾い上げた。」

このオヤジは話しが面倒くさいので、慌てて手から引ったくるようにペンを取ると、ポケットの中に押し込んだ。

「家にあったのを間違ってポケットに入れて来ちゃった。それにしても、元旦早々の宿直って何だよー、宿直室で一人寂しく明けましておめでとうございますか?」

話題を変えるために慌てて愚痴でごまかす。

「室川。元旦なら、まだマシだ。俺なんか大晦日お泊りだぞ。酒も飲めねーし、紅白見ながらお茶じゃ〜、寂しすぎるだろう」
滝井さんは大の酒好きなので、さすがにシラフの大晦日には僕も同情する。

“フラッシュビーム”かー。
みぞれ混じりの寒空の下、自転車を走らせ自宅に着いた僕はアパートに入るなり後ろ手でドアを閉め、悴んだ手で、小口さんの家から持ってきてしまった手のひらに収まる“ブツ”をポケットから取り出した。

なるほど、言われてみれば、ペン先に穴は開いていないし、芯を押し出すレバーも付いて無い。

確か早田隊員がウルトラマンに変身する時に“シュワッチ!”と言う掛け声と共に押す赤いボタンも付いている。
完全に“バキッ”と音がしたので、絶対に割れていると思っていたのだが、ヒビ一つ無い様だ。

何でこんな物が小口さんの家にあったのだろうか?普通に考えれば遊びに来た孫の忘れ物なのだが小口さんから、孫が居るなんて聞いたことがないし、仮に居たとしても、遊びに来るような部屋ではない。

プラスティック製のボディーの色は褪せてしまっているので、最近作られたおもちゃでなく、毎週日曜日になると日本中の男児がテレビの前に釘付けになった昭和40年代のテレビ放映当時の物に見える。

ふと、お宝鑑定団では無いが、当時流行ったおもちゃの現在の値段が知りたくなり、ネットで調べてみる事にした。もしかしたらプレミアが付いているかもしれない。

調べて始めて、直ぐに間違いに気がついた、これはフラッシュビームでなく、ベータカプセルと言うらしい。

ヤフオクでも検索してみたが、安っぽいものでは数百円から、最近復刻版として発売されたものは限定販売だったらしく、プレミアがついており五万円近い値段がついている。五万円はどうかと思うが、ウルトラマン世代の僕にとって、子供時代の夢が蘇ると思えばありえない金額でも無い。。ただ、五万円とは僕の月給の四分の一である。

果たして、小口さんのベータカプセルはどの時代のおもちゃでオークションではどれくらいの値段がついているのか?気になったので、引き続き調べてみた。

小口さんのベータカプセルには少々、特徴があり、変身時に押す赤いボタンの右横に小窓があり、中に“4”の数字が見える。ボタンを押すと、数字が変わりそうな気もするのだが、万が一、押して変わってしまうと小口さんにバレてしまうので、その特徴を検索ワードに追加して再度検索してみた。

Googleでの検索結果を一ページ目から確認し始め、もう諦めようか?と思った10ページ目の検索結果に目が止まった。
“世界で唯一!本物のベータカプセル!”“信じる貴方にだけお届《《き》》します”
完全に怪しいサイトへの誘導である。“お届《《け》》します”が“お届《《き》》します”になっている。

カーソルをモニタ上のリンクURLに合わせてみると、案の定、NORTONのアラートがポップアップで表示された。フィッシングの危険が高いので、クリックしては行けないとの親切な案内だ。

僕のPCは更新の費用がなく、NORTONの有効期限が先月末で、切れてしまっている。
完全無防備状態の僕のオンボロPCではウイルスに伝染したら、一巻の終わりだろう。

このインチキ広告サイトを見た所で何が起きるわけでもなく、友人から3,000円で譲り受けたこのPCが唯一の情報源だし、馬鹿らしくなり、PCを閉じ、そろそろ、お湯が溜まったであろう風呂に入ることにした。

炬燵以外に暖房器具の無い部屋で冷えきった身体が、熱い湯の中でフニャフニャと溶けていく。手足の先がジーンと痺れる感覚が子供の頃から大好きだ。

1時間近くPCの前でウルトラマン三昧だったので、昔の記憶が蘇ってきた。

造作が雑なのか?放映スタート時のウルトラマンの顔が凸凹だった事、隊員の乗る車がやたらめったら格好良かった事、フジアキコ隊員が美人だった事。子供心にフジアキコ隊員に恋心を持っていた僕だった。

ベータカプセルに関してはある程度分かったが、どうして、小口さんの家にあったかは?解決しない。

まあ、次回来所日の送迎担当を僕に変更してもらい、迎えに行った時にバレないように置いてくれば良いだろうと無理やり話しをまとめ、風呂から上がった。

風呂あがりポカポカで幸せな僕の前に缶ビールが三本。発泡酒でなくビールがわが部屋にやってくるのは何ヶ月ぶりだろうか?それも、500ml缶である。
メシ代をケチっている今の私にこんな贅沢が出来るわけが無い。実は今日の送迎時に矢口さんからビール券を頂いてしまったのだ。

基本的に福祉施設では利用者さんからお金は勿論、物を貰うことは禁じられている。これはウチの施設だけで無く全国的に同じだろうと思う。

送迎バスの中で“ご苦労様”と言って大切そうにバッグから豆乳キャラメルを一個くれる馬場さん、今度、用意しておくからビールでも飲みに来なさいと誘ってくれる渡辺さん、自宅の机の上においてあるお菓子を幾つかくれるのだが、必ず賞味期限切れの三谷さん、矢口さんはご夫婦でデイサービスを利用しているのだが、都営のアパートに送迎で行くと、感謝感謝と言って何かしらくれる。

時々小さく畳んだ千円札を差し出されるのだが、現金はまずい。まずい。。。と思い、断り続けると怒りだすので仕方がなく受け取る。?受け取った?受け取らなかった?ここの部分は有耶無耶にしておこう。
と言うわけで目出度く48歳独身オヤジの嬉し恥ずかし真冬のビールタイムの始まり始まり。コンビニで買ってきた、キムチと魚肉ソーセージが今晩の酒のおつまみだ。

それにしても、この仕事に就いて酒を飲む機会が確実に減った。
仕事を始めたばかりの頃はどうしても我慢出来ずに、コンビニのアルコールコーナーの前で迷ったあげく、ワンカップを買って帰る様な日もあったが、最近は飲まないのが当たり前になってしまった。

今晩は久しぶりにまとまった量のアルコールを摂取している。たかが、ビールだが一人で飲む酒はピッチが早く、ろくなつまみもなく、二本目を空けた位から完全に気持よくなってしまった。
焦点の合わない目、頭でぼんやりと思い出した事がある。今は福祉の仕事をしているが、子供の頃から作家になるのが夢だった。

お母さんと出かけるときにも必ずお気に入りの絵本を小脇に抱えていた。
特別、文才がある訳でなく、なんとなく、何もない真っさらな原稿用紙に心から湧き出る言葉を並べ、人々を喜ばせたり、感動させたりする職業にあこがれていた。
たまたま、先日からサービスが始まった中島さんと言うお爺さんが昔作家だったと言う話しを聞き、僕自身の夢について思い出した。

今、ウチの施設に来ている高齢者は大体が80歳~90歳、中には100歳超えのスーパーお婆ちゃんもいる。
特養に入所している人と比較すれば、まだ、まだ、元気なのだが、自分の足だけで歩行出来る人は少なく、シルバーカー、杖、車椅子での移動の人が殆どだ。

彼らは一人で行きたい場所に移動する事が出来ない。
寒い季節、暖かいあんまんが食べたくなってもコンビニに行くことが出来ず、桜の季節に散る花びらの下を歩く事も出来ない、新緑の季節に裸足で青々した芝の上を歩く事も出来ないのだ。

最近、自分の“残された日”を思う様になった。

どこかの国の芸術家の墓碑に“死ぬのは何時も他人ばかり”と刻まれていると何かの本で読んだことがある。
“死”は生きとし生けるもの全てに公平に必ずやってくるのだが、僕達は何となく、自分だけは死なないような気でいる。

満開の桜の木をあと何回みられるのだろうか、数えた事がある。

80歳まで生きるとして、80-48=32・・・恐らく最後の数年は自分の力だけでは外出する事も出来ないだろう。

ビールを飲んでいる今だって、確実に死に向かっている。

久しぶりにアルコールを摂取したせいか?結構、頭の中がヘビーになってきた。
明日の朝も早いし、哲学的な一人飲み会もお開きにして爆睡する事にした。

CPをシャットダウンしようと開くと先ほどの怪しい検索結果が再び表示された。
“世界で唯一!本物のベータカプセル!”“信じる貴方にだけお届きします”

僕はマウスをシャットダウンのアイコンからゆっくりと移動して、少し迷って、そして怪しいリンクをクリックした。

色使いもデザインも滅茶苦茶のサイトが開いた。目に飛び込んでくるのは、このベータカプセルで貴方の夢が叶うと言う大きなキャッチコピー。真っ赤な大きな文字がチカチカ点滅している。

通常こういった怪しい物販ページには、使用前使用後の写真や利用者からの喜びの声などが、びっしりと書かれているのだが、何もなく、ベータカプセルの写真と数行の謳い文句あるだけだ。

小口さんの家から持ってきてしまったベータカプセルとサイト内の商品をくらべてみたが、ボディーの色、発光部のデザイン、そして小窓がついているので、恐らくこのベータカプセルが「世界で唯一のベータカプセル」なのだろう。

そして、サイトには4つの但し書きがあった。
1)このベータカプセルの持つ奇跡を信じる人にしか販売をしていない事。
2)支払いは現金前払いである事。
3)夢は5つまで叶えることが出来る事
4)使用後は燃えるごみとして処分する事が出来る事。

僕はこのインチキカプセルの販売価格が知りたくなり“購入する”ボタンをクリックしてみた。

小口さん。やられたな。。。

税込みで20万円。

そして既に販売終了につき、現在はお買い求め頂けません。とある。
年金暮らしの身で20万とは小口さんも相当なお馬鹿だ。

クーッと言いながら冷えっきた布団に身体を潜り込ませる。ただ、今晩は酒が入っているせいか、直ぐに幸せな瞬間がやってきた。

中学生の時、同じバレー部の菊ちゃんからBeatlesのAbbeyRoadを貸して貰って以来、この瞬間には必ずGolden Slumbersと言う曲を思い出す。

遠のいていく意識の中で、オヤッと思った事がある。

確かサイトの中の商品写真はボタン横の小窓の数字は“5”だったが、小口さんの数字は“4”だ。と言う事は小口さんが何かしら夢を叶える為にボタンを押し、その結果数字が5から4に変わったと言う事だろうか?

小口さんの夢ってなんだろう。。。。。。

 

第6章 一度目の奇跡

デイサービス利用中で一番気をつけなくてならないのが、転倒だ。一歩間違えると大事故につながる。
骨がもろくなっている高齢者が転倒すると、骨折の危険が非常に高い。
転倒時に手を付けば、手首がポキっ。

片麻痺の人が転倒すると、腰や大腿骨と言った大きな部位の骨折につながる。治癒する力が弱い高齢者はそのまま寝たきりになり、体力が落ち、食事量も減りそして、亡くなっていくパターンが多い。

私ととても気が合う古橋さんも、移動は車椅子なのだが、1年位前、目の前に落としてしまったストローを拾おうとして、バランスを崩し前のめりに転倒してしまい。手首と肩を骨折してしまった。

昔、飲み屋を切り盛りし、女手ひとつで二人の子供を育てきった古橋さんは頑張り屋なので、人の何倍ものリハビリメニューをこなし、先月末デイサービスに復活した。

復活初日の利用日はたまたま、僕が朝のお迎え担当だったので、久しぶりの再開と言う事もあり、車椅子ごとハグした後、
両足を揃え、シャキッと!直立不動で「長い間のお勤めご苦労さまでした」なんて言いながら敬礼の真似をした。

古橋さんもふざけて、「古橋静子。90歳。恥ずかしながらシャバに復活いたしました」って元気良く答えてくれた。

例のベータカプセルだが、小口さんの送迎担当になりアパートに行った時に、そーっと返そうと思い、何時もパンツの右側のポケットに入っている。

その日は施設にピアノの先生がやってきて、利用者さん達と歌を歌うレクリエーションだった。
この手のレクはワーカーとしては有難い。
皆、先生の方に集中してくれるので、レクの時間は利用者さんに対して手がかからないのだ。
その間、ワーカー達は食事をとったり、部屋の端の方で雑談をしていたりする。
僕は先生に向かって利用者さん達が向いている反対側のスペースで、遅い昼食を食べていた。

ウチの施設には大きな厨房施設があり、出来たての食事を食べる事が出来る。

ワーカーも基本的に利用者さんと同じメニューなのだが、結構美味しく、大盛りにもしてくれるし、最近は厨房のお姉さんも僕の顔を覚えてくれて、大盛りの上に更にてんこ盛りにしてくれる。

その日の昼ごはんは月に一度の郷土料理の日。
この日は各県の名物料理を再現してくれる。

今月は沖縄県ソーキそば。
大きな豚の角煮もしっかりと乗っていて、大盛り仕様の私には角煮が3個も乗っていた。どんぶりから溢れそうな麺と格闘しながら平らげ、中国人ワーカーの久保さんが淹れてくれた紙コップのコーヒーを啜りながら元気に歌う皆を何となく見ていた。

小口さんも美人のピアノの先生の真ん前に陣取り満面の笑みで歌っている。

室内は暖房が効いているので温かいのだが、何となく入り口扉の方向から冷たい空気を感じたので、目を向けた時だった。
?!

伊藤さんが立ち上がっている。

大腿骨骨折が治り退院したばかりの伊藤さんは車椅子での生活になり、介助無しで一人で立ち上がる事は出来ないはずだ。

右手でベッドの柵は掴んでいるが、両膝がユラユラと前後に揺れている。

「まずい!」と思った瞬間、伊藤さんの手が柵から離れ身体が前傾し始めた。
伊藤さんの前には利用者さんのテーブルと、誰も座っていない椅子がある。

このまま前方向に倒れたら、テーブルか椅子に突っ込んでしまう。

咄嗟に伊藤さんの元へ!と思ったのだが、たまたま、椅子に深く座って足を組んでいて、おまけに右手はポケットのベータカプセルを握っていたので、間に合わなかった。

伊藤さんの身体がスローモーションの様にゆっくりと倒れ始め、皆の歌声も聞こえなくなる。

僕は「うぐっ」と声を出し、一瞬、全身が強張った。

だが、次の瞬間、伊藤さんの倒れゆく身体が体操選手の床運動ジャンプの様に自然に回転を始めた。

そんなに機敏に身体が動くはずないのだが、僕の目には信じられない早さでクルッと回った様に見えた。

そして、そこにあった椅子にストンとお尻から見事に着地した。

僕は椅子からの立ち上がりに失敗して、一瞬腰は浮いたのだが、その光景に驚いてまた、ドスンと座ってしまった。

一瞬聞こえなくなった皆の歌声が又聞こえ始め、僕は我に返った。

部屋の端で起こった、この出来事に気づいたのは僕だけだった様で皆、ピアノの伴奏に合わせて手を叩いたり歌を歌っている。

今のは何だったのだろうか?たまたま、何かに躓いて身体が回転したのか?
まあ、何しろ転倒事故にならないで良かった。

伊藤さんの様子を伺おうと、僕が立ち上がると、ベッドから椅子に移動した伊藤さんに気づいたワーカーの星さんが

「あらっ、だーれー、伊藤さんを椅子に座らせたのー?」と言いながら何事もなかったかの様に伊藤さんをベッドに移乗した。

伊藤さんが見事に着地した椅子、足元を確認してみたが、これといって躓く様な物はなかった。

 

 

第7話 そして奇跡がもう一度

ポケットに入っていたベータカプセルのカウンターの数字が「4」から「3」に変わったのに気がついたのは、二日後の夜だった。

その晩、自宅で風呂に入るときに、今日も小口さんに返せなかったベータカプセルをポケットから取り出した時に、僕はアッと声を出してしまった。
確かこの前は「4」だった赤い数字がいつの間にか「3」になっている。

利用者さんにうつされたのか、風邪気味だった僕は急いでいつもより熱めに沸かした風呂に首まで浸かり、何でだろう?と考えた。

ポケットの中でうっかりレバーを押してしまっただろか?
嫌、小口さんの部屋から持ってきてしまった晩、酔っていたせいもあり、軽くレバーを押してみたのだが、うっかり押してしまう様な作りではなかった。

風呂に浸かりながら、あれこれと考えてみたが、発熱のせいで頭もボーッとしており、結局、何故数字が変わって分からずじまいで風呂から出た。

ここ数日の利用者さんの挨拶は「今日も寒いねー」だ。数十年に一度のシベリア寒気団が上空にあるらしく、年寄りでなくても十分に寒い。

風呂から上がって直ぐにポカポカのまま布団に入るつもりだったのだが、施設から、明日の担当者会議の時間変更の電話があり、余計な事まで話していたら長引いてしまい身体はすっかり冷え切ってしまった。

施設に行ってから確認すれば良いやと思ったので、話の後半は適当に相槌を打ちながら、ベータカプセル弄りながら話を聞いていた。

「まてよ?」そもそも、夢を叶える20万円のベータカプセルだ。もう数字は変わってしまったし、試しに何かお願いしてみるか?

今、何か欲しいものがあったか?イヤイヤ、施設で一番可愛い芳野さんとデート出来るようにお願いするか?

・・・俺は何て馬鹿なこと考えてんだ、今の時代に魔法のカプセルか?しっかりしろ!そんなことだから、この歳で20万円しか給料を貰えないんだぞ!

「室川!」

「室川!!」

受話器の向こう、秋林さんの大きな声で我に帰った。

「室川、お前聞いてんのか!」

「は、はい!

話の後半は殆ど聞いていなかったが、電話を持つ手も完全に冷え切ってしまい。僕は適当に返事をして切り上げた。

コンチキショー!完全に体の芯から冷え切った!夢が叶うなら酎ハイでも飛んでこい!

「ぷちっ」

僕は勢いに任せてベータカプセルのボタンを押してしまった。

「カチッ」とか「カチン」と言った気持ちの良いクリック音を予想していたのだが、あまりにも情けない感触だった。

この音の様子じゃ絶対に夢なんて叶うはずないや。
カプセルの赤い数字もしっかりと「3」から「2」になってしまっていたが、そんなことはどうでも良い様な気がして、ベータカプセルを放り投げ、冷え切ったまま、冷たい布団に潜り込んだ。

カップルだろうか?薄い窓ガラスの向こうを大きな声で話しながら歩いている。
女の甘ったるい声がやたらと響き、どうやらこれからお寿司を食べに行くらしい。

「はい。はい。寿司でも何でも食ってくれ」そんなもんもう何年も食ってないや。
羊が一匹、羊が二匹。の代わりに寿司ネタをボソボソと口にした。

「マグロ」
「タコ」
「イクラ」
「ウニ」
「カツオ」

・・・・・・・・久しく口にしていないのでたったこの程度のネタしか思いつくことが出来ず、そして僕は眠りについた。

エレキングが霞が関ビルをなぎ倒し、東京タワーを二つ折りにして東京を滅茶苦茶に破壊していた。

その時、空の彼方がピカッと光り、
🎵セブン~🎵
🎵セブン~🎵
🎵セブン~🎵
🎵セブン~🎵
🎵セブン、セブン、セブン🎵

エレキングはウルトラマンに登場する怪獣なのだが、僕はセブンの方が好きだったので、円谷ヒーロー登場のテーマ曲はウルトラセブンだ。

「ドーン」地響きと共にウルトラマンが地球に無事到着。

足元のアップから徐々にカメラは上に上に移動する。何故かモッコリしていない股間、日本人なら誰でも知っている胸のカラータイマー。

いよいよ、ウルトラマンの凛々しいマスクだ!

初代なので、マスクの造りはデコボコのはずだ!

「よし!地球平和の為にウルトラマン頑張れ!」

「エーッ??」

首から下はウルトラスーツ。だけど、顔だけコテコテの人間。平べったい顔で満面の笑みの小口さん。

どうやら、《《ウルトラの小口さん》》エレキングと戦うつもりらしい。

足を前後に開き、中腰で両手は身体の前で戦闘態勢だ!

でも、顔だけ素の人間、それも体勢とはチグハグな満面の笑み。
「しゅわっち」掛け声もテレビの様にエコーが掛からず、少し声が震えている。
「しゅわーっちゅう」

その掛け声もチョット違いますから。。

右手に持っているのは、僕が部屋から持ってきてしまった?ベータカプセル!

「小口さん。ベータカプセルを使うのは、ハヤタ隊員がウルトラマンに変身する時に使うの。」

「ウルトラマンの状態で使ってどうするの!」

「エイ!」
「ヤー!」
「それ!」
「どうした!」

顔だけ小口さんのウルトラマンは、適当な掛け声で、ベータカプセルのボタンを何度も押し続ける。

しかし、既にウルトラマンに変身済みなので、何も起きるはずはない。

そのうち年寄りである自分の力が弱くて、ボタンが押せないと思ったのか、胸の高さにある高田ビルの屋上部分にベータカプセルをぶつけはじめた。

「そりゃ!」
「どうだ!」
「そいや!」
『ガン、ガン』
『ガン、ガン』
『ドンドン』
『ドンドン』

・・・・・・・・

『ドンドン、室川!』
『室川!、ドンドン』

何だ何だ!急にリアルに煩くなったぞ。

『室川クーン』

この夜中に誰かがドアを遠慮もせずに叩いている。
何だ、ウルトラマン小口は夢だったか。。

枕元の目覚まし時計を、見ると12時20分だ。布団に入ってまだ10分しか経っていない。

それにしても何と変な夢だったんだろう。

『ドンドン』

そしてこの夢を強制終了したお方が夜中にドアを叩いている。
誰だよー。こんな時間に。

そもそも、このオンポロアパートを知っている人など、数人しか居ないはずだ。
『はいはい。』と言いながら折角温まり始めた布団から這い出して、玄関ドアを開けた。

「竹井さん!」

へえ〜っ、この人、外でお酒なんか飲むんだ。

酔っ払って赤い顔をした竹井さんがそこには立っていた。

「ヨッ、室川くん。。。」

お前、この寒さで良く上着着ないで大丈夫だなぁ。

「竹井さん。これパジャマ。寝るときに上着着ないでしょう。」

「おまえ、若いのにもう寝てんの?」

「そんなに、早くから寝てたら、介護認定下りないよ。」
・・・・・言っていることがよく分からない。単語一つ一つは正しいけれど。

「まあ、何でもいーや。酒買ってきてやったぞ。酒。沢山買ってきてやったぞ、ぜんぶ飲み干したら、お前も要支援の仲間入りだ!」

「ありがとうございます」今、お酒飲みたいって思ってたんですよー。」

「嘘つけ。寝てたくせに」

「この人酔ってんだか、シラフなんだかよく分からない」

その後、竹井さんは今まで飲んでいた店で締めに出てきた焼きオニギリについてきた、あさりの味噌汁がやたらと塩っぱかった事を延々と話し、塩分を「中和」「中和」とコップ一杯の水をゴクゴクと音を立て飲んで帰っていった。

さて、竹井さんが持ってきてくれたコンビニの袋には気前よく大量のお酒とおつまみが入っていた。

珍しい事も事もあるもんだ。施設ではケチで有名な竹井さんが何故突然大量のお酒を買って持ってきてくれたのか。

ビールにワンカップ、紙パックに入った日本酒、酎ハイまで入っている。

完全に目が冴えてしまったので、一杯やってから寝ることにするか!

竹井さんや私の世代はおつまみと言ったら、魚肉ソーセージ、イカの燻製、柿ピーが定番だがこれまた、全て入っていた。

明日、レシートを持ってきてお金払えなんて言わないだろうなー。
あり得ない差し入れに対して疑いの晴れない僕だったが、有り難く頂く事にした。

まずは大好きなレモン酎ハイのプルトップを開け一気に半分位喉に流し込む。

「プフーッ」

冷たいけどうまい!酔いが回れば少し暖かくなるだろう。

魚肉ソーセージに手を伸ばした時、その横に置いてあったベータカプセルと大きさが同じ事に気が付いた。

僕はわざわざ立ち上がり、左手を腰に当て、右手で魚肉ソーセージを高々と上げて

「シュワッチ」と小さな声を上げた。

「・・・なーんてね」

この格好悪さは、小口さん版ウルトラマン並だろう。
これまた好物の魚肉ソーセージのビニールを剥きながら、ベータカプセルを眺めていたが、カウンターの数字「2」が 目に入った。

そうだ寝る前に秋林さんからの電話で頭にきてボタンを押しちゃったんだっけ。

小口さんに返す事を考えたらマズかったなー。

こんなインチキベータカプセルで夢が叶うはずないのに。。。
「酎ハイ!飛んでこい!」なんて。
僕は手にしていた酎ハイを喉を鳴らしながら飲んだ。

せっかくの酎ハイだ。缶が逆さまになり天井を見上げる姿で飲み干した。

蛍光灯からぶら下がった紐がユラユラと揺れている。。。

・・・・・えっ?
・・・・・嘘だろ。酎ハイ。
・・・・・飛んできちゃった。

確かにベータカプセルに酎ハイ飛んでこい!とお願いしたけれど、竹井さんが持ってきてくれたのは、単なる偶然だろう。

こんなバッタモンで夢が叶うなんてあり得ない。。

絶対に。絶対に。。。

 

第8話 小口さんのシュワッチ

施設は色々な人達が利用している。
生涯独身を貫いた、いや、貫きつつある人、連れ合いに先立たれ今は独居の人、夫婦揃って来ている人。

高齢者で夫婦揃っているパターンは少なく、約160人の利用者の中で5組だけだ。
少し前に触れたが、福岡生まれの谷口さん夫婦もそのうちの一組だ。

お父ちゃんは目が悪く?何時も、“めーないめーない”(見えない、見えない)と言っている。
だが見えない割に杖をつきながらもスタスタと目標に向かって一直線に歩くと言う特技を持っている。

お母ちゃんはとても賑やかなキャラで送迎車の中に限らず、デイルームの中でも福岡弁でよく喋り、湿りがちな環境の中でムードメーカーだ。

そんな谷口さん夫婦を初めて迎えに行った行った時の事は鮮明に覚えている。
車内で夫婦の話題になった時に
「わたしは生まれ変わってもお父ちゃんと一緒になる」と大きな声で僕に教えてくれた。

結婚してどれ位経つのか分からないが、その間に戦争もあったし、決して良い時代ではなかったはずだ。それなのに、同じ伴侶を選ぶとは。。。

嘘や冗談ではないだろう、お母ちゃんのニコニコとしたその顔をバックミラー越しに見ていると、涙腺の弱い僕は運転しながらウルウルしてしまった。

同じ都営のアパートに住んでいる木村さんも仲良し夫婦だ。

ご主人の峯男さんは足が不自由で車椅子に乗っている。若い頃はさぞかしオシャレだったんだろう。いつもハンチングやキャスケットを被っていてとても似合っている。

俗に言う、蚤の夫婦というヤツで奥様の良子さんは峯男さんよりはるかに背が高く「と言っても峯男さんは車椅子なので並んだ2人を見たことはない」背筋もまっすぐで歩くスピードも速い。

人間何歳になっても、きっちり、1年に1回誕生日がやって来る。
施設でも、「その月」に誕生日を迎える利用者さんのお祝いをする。

今日は月に一度の誕生日会だ。

超高齢時代の現在。80、90歳なんて当たり前!

元ヤクザの立石さんは86歳。
肩から背中にかけて見事な入れ墨がある。

入浴介助の時に必ず、ワーカーに「これを彫る時に痛て〜のなんのって」と教えてくれる。

立石さん曰く「般若」を彫ったらしいのだが、若い時の三分の一位にやせ細ってしまったので、説明をして貰わないと「般若」には見えない。

新入社員の男性ワーカーが入浴介助時に、この入れ墨を見て「全然、般若には見えない」とうっかり正直な事を言ってしまい「テメーぶっ殺されてーのか」と立石さんを怒らせてしまった事がある。

僕は、その場にいなかったのだが、怒鳴られたワーカーは可哀想に、翌週辞めてしまった。
とっくの昔に現役を引退しているとは言え、本物のヤクザ屋さんが怒ると相当怖いのだろう。

こんな立石さんだが、普段はとても穏やかで面白いお爺ちゃんだ。

18番のネタは片手を相手の眼の前で開き、ボソッと呟く「4.5」。
「小指が半分無い」と言う自虐ネタなのだ。

立石さんは、金歯を見せて「オレの必殺ギャグどう???」と言う顔をするのでだが、見せられた人は笑って良いものやら。。。困ってしまう。

私は、もう慣れたもので、最近は片手を立石さんの目の前で開き「5.0」と言い返す様にしている。
若い時は関西方面で大親分だったらしいのだが、今は、築40年は経っているだろう都営住宅で慎ましく一人暮らしだ。

僕はカメラマンとデザイナーと言う、この施設においては恐ろしく場違いなキャリアを持っている。

そこで、誕生日にはオリジナルカードをデザインしてプレゼントする事を思いつき、お爺ちゃん、お婆ちゃんの出来るだけ自然で美しい写真を撮り、マックで画像補正〜デザイン〜プリントアウトしてプレゼントする事にしている。
担当者会議の利用者さんの家に行った時、仏壇に私が作ったカードが飾られていた事があり、ウルウルしてしまった事もある。

今月末に誕生日を迎える建具屋の伊藤さんなんて、御年102歳!

経費節約の為に誕生日ケーキは使いまわしが出来る様に、発泡スチロール製だ。
102本もロウソクを立てる訳にいかないので、太いのを10本、細いのを2本で勘弁して貰う事にしました。

部屋のライトを消し、ロウソクに火をつけ、「さあ、伊藤さん!消せるかな〜?」とベテランの星さんが伊藤さんに話しかける。

伊藤さんは、車椅子に乗った小さな身体で息を吸い込み、

「さあ〜〜〜っ」

・・・と言う絶妙なタイミングで認知症クラスの佐藤さんが突如乱入!
見事な一息で、ロウソクを全て吹き消してしまった。
呆気に取られるみんなを前に、いつもの一言「俺、ご飯食べたっけ?」
ワーカーは揃って「さっき食べたばかりでしょう!」

まあ、毎日がこんなドタバタの連続なのだが、高齢者施設には経験者しか分からない、和やかな雰囲気がある。

これは、悲しい現実なのだが、高齢者施設での勤務はとても給料が安い。
それにスタッフの高齢化も深刻だ。

経験2年、40歳後半の私の給料は20万とちょっと。
大して、安くないじゃんと言う人がいたら1週間でも良いので、実際に現場を体験して欲しい。

ナースや理学療法士、ケアマネジャーは、そこそこの給料を貰っているが、末端の我々は本当に給料の割に心身ともに重労働だ。

食事や入浴の介助、送迎など、利用者に接する全ての業務が命がけだ。

バスの送迎表なんて、夜遅くシーンと静まり返った、誰も居ないプレイルームで作っていると、本当に悲しくなってくる。
勿論残業なんてつくはずがない。

ガードマンを雇う経費を節約する為に、我々ワーカーは持ち回りで宿直も任されている。
月に2回宿直室に寝泊まりしている。
デイサービスの利用者さんは夜間居ないので、建物の3、4階の特養で何かあった時の為に待機をしなくてはならない。

ただ、男やもめに・・・なんとかでは無いが、宿直室が汚いのだ。。。
最初、部屋に入った時は絶句してしまった。

4畳半の部屋は畳敷き、真ん中に蛍光灯がぶら下がっていて、奥には我々が寝るために介護用のベッド、テレビ、押入れ、布団もあるのだが、使い回しをして何時干したか分からない様な布団で寝るのは真っ平だ。

冬の夜は、館内の暖房も止まるし宿直室の中も寒くなるので、私は、布団を敷かずに、小さなエアコンをガンガンに効かせてホコリを立てない様にそーっと介護ベッドの上で丸くなって一晩過ごした。

ただ一泊すれば良いと言う訳でなく、夜中に一度、館内の見回りに出かけるのだが、気味の悪い事と言ったら半端ではない。。。
特に、地下に「昔は霊安室だった」なんて竹井さんに聞かされた部屋があり、その部屋の見回りで重い扉を開ける時は気合がいる。

2年半の勤務中、一度だけ、宿直中にけたたましいアラームで起こされた事がある。いや、アラームなんて生易しい物ではなく、警報ベルだ。
特養で何かしら緊急事態が生じた際には、我々、宿直担当が真っ先に対応しなくてはならない。

利用者さんが急病になり、救急車で運ばれることが多い。
シーンと静まり返った真冬の深夜に、血の気が引き、ぐったりした利用者さんと、施設の入り口で救急車を待つのはなんとも心細い。

東京と言ったって、墨田区の押上で一歩裏手に入ってしまえば、この時間人っ子一人いない。

この宿直だが、運が良ければ、朝まで何事も起きず、楽をして数千円の手当を貰う事ができる。
おまけに、宿直の翌日は休みなのだ。

宿直明けは、いつも朝から銀座一丁目のやよい軒に行き、370円の納豆定食を食べる事にしている。
ご飯のおかわりが自由なので、3〜4杯食べて、朝+昼ごはんにしてしまうのだ。
通勤途中のサラリーマンを店内から眺めつつ、のんびりとご飯を食べる事の楽しい事。

東京で桜の開花宣言があったポカポカと温かい日に、珍しく小口さんのケアマネ、橘さんが施設にやってきた。

室川さ〜ん。お願いがあるの。。。

聞けば、小口さんが住んでいるアパートの部屋を一部改装するとの事。
築40年以上の小口さんの部屋には、あちこちに段差があるのだ。
健常者だったら何の問題も無い数センチの段差だが、高齢者は筋力の低下と共に、足を上げる事が出来ず、すり足の様に歩くようになってしまう。
小口さんも時々、僅かの段差で躓くことがある。

橘さんからのお願いなのだが、今回の工事は、結構、大掛かりな工事らしく一晩だけ小口さんを施設で預かって貰えないか?だった。

施設長に相談したが、問題なしとの事。。。

個人的な問題としては、小口さんが一泊する日、たまたま、私が宿直当番だと言うことだ。

飲み屋での出会いが出会いだっただけに、何処かから仕入れた酒でも持って、夜中に宿直室まで遊びに来るんじゃないだろうか。

さて、小口さんが施設に泊まる日も昼間は何事も無く終わった。
小口さんは3階の特老の使われていない一室で寝る事になった。

宿直室においてある、独身男たちが持ち込んだ週刊誌を一通り見終わり、午後11時ごろベッドに寝転がることにした。

電気を消して5分ほど経ったとき、ドアを「コツコツ」とノックする音がする。
「室川さ〜ん。起きてる?」

本当に来たよ。小口さん。。。

ドアを開けると、手に珈琲が入った紙コップを2つ持って小口さんが立っていた。

「ダメじゃないですか〜3階を抜け出しちゃ〜」

「ホレ!室川さんが好きな珈琲買ってきた」

小口さんに珈琲が好きなんて一度も話した事は無いのだが、打ち合わせスペースにあるUCC珈琲の自販機前でいつも珈琲を飲んでいるのを見ていたのだるか?
この自販機は一杯づつドリップ抽出するので、美味しいのだ。

「ありがとうございます。宿直室は狭いので、デイサービスの部屋にでも行きましょうか。」

だだっ広く真っ暗な施設内はとても気味が悪い。

部屋中の電気をつけ、必要以上に明るくなったデイサービスルームで私達は椅子に座った。
ワーカーや利用者で溢れるこの部屋も、小口さんと二人だけだと、とてもでっかく感じる。
厨房だけは暗く、冷蔵庫だろうか?赤いランプがチカチカと点滅している。

「ほれっ。珈琲。いつもブラックだろ」

「ありがとうございます」

「・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・」

二人共黙って珈琲を啜っているのだが、何かしら話したい事があるのか、小口さんは時々、チラチラとこっちを見ている。

「室川さんよ、前、家に来た時に何か持っていかなかった?」

しまった!ベータカプセルの事だ!

早く返さなきゃ、と何時も思っていたのだが、結局、今日の時点で返していない。

気にはしているのだ。実は今だってポケットに入っている。

「持っててもらってい〜んだよ。でも、気をつけて貰い事があるんだ」

勝手に持ち帰ってしまったのだ。これは泥棒と一緒だ。
怒られて当たり前なのだが、小口さんは、言いにくそうにしている。

「小口さんごめんなさい。。。実は・・・・」

無断で持ち帰り、おまけに勝手にボタンを押してしまった事を詫びようと思った時だった。

「ボンッ!」と大きな音がして、厨房が光り、熱風が吹き僕は眼の前が一瞬真っ白になった。
ガス台あたりだろうか?何かが爆発?して激しく火を噴いている。

「小口さん!危ないから後ろに下がってて!」

先月の避難訓練で非常ベルや消火器の場所を説明して貰ったのだが、あまりにも火が激しく吹き出しているので、怖くて頭が真っ白になってしまって、思い出す事が出来ない。

「ボンッ!」「ボンッ!」と先程より大きな音が2度聞こえ、天井まで届く火柱が上がった。

3階、4階には寝たきりの利用者さんが50人以上いる。
施設にいる職員は私だけだ!

そうだ!まずは消防を呼ばなきゃ!
ポケットからスマホに取り出す。

「あれっ?ベータカプセル!」

そうだ、スマホは寝る前に宿直室で充電してたんだっけ。

事務所に行き電話を掛けなくちゃ!と思った時、いつの間にか小口さんが、僕の横に立っていた。

「室川さん。ベータカプセル」
落ち着いた口調でそう言い。僕の手からベータカプセルと取ると、ゆっくりと火の元に向かい歩き始めた。

「ダメだよ!小口さん!危ない!」

「大丈夫。室川さん、下がってて」

小口さんは燃え盛る、火の近くまで行き、ゆっくりと足を肩幅に広げ左手を腰にあて、右手で持ったベータカプセルと高く持ち上げた。

「シュワッチ!」

その瞬間、トンデモナイ閃光が走り辺りにあった机や椅子と一緒に、僕は後ろに吹き飛ばされた。

 

第9話 ベータカプセルの秘密

「やっと気が付きましたね」

気がつくと、僕はベッドに寝ていた。どうやらここは病院らしい。

「どうして、僕は病院にいるのだろう・・・・」

「あっ!そうだ小口さんと珈琲を飲んている時に厨房で突然爆発があったんだ」

身体を少し起こし、部屋の時計を見ると1時だ。
小口さんと話していたのは、昨日の夜だから、12時間以上寝ていたのだろうか。

視界に施設長と警察官が目に入った。

「施設長。僕はどうしてここにいるのでしょうか?小口さんは?」

「小口さんって、利用者の小口さん?昨日は施設に泊まり、今朝、ケアマネの橘さんが迎えにきたよ」

「ちょっと、お話を聞いてもいいですか?」
警察官が割って入る。

その後、ベッドに寝転んだまま、3時間以上、警察官から火事についての聴取を受けた。

火事について、警察官から説明を受けた。
ボーンと言う爆発音に施設の隣人が気づき、消防署に連絡をしてくれたそうなのだ。

また、ほぼ同時刻警察に、男性のお年寄りから高齢者施設で火災が起き、現場にワーカーがいるから助けてあげてと通報があったらしい。

火事は厨房に積まれていたカセットコンロ用のガスボンベが爆発した事が原因らしい。
ただ、当日、付近に火の気はなく、どうして引火したのかは。消防が調査中らしい。
また、一番の疑問は天井まで届く火がどうして消えたのか?誰がどうやって消したのか?だ。
消化器を使った形跡も無いし、スプリンクラーも作動していない。

時間が経つにつれて、なんとなく昨晩の事を思い出しはじめていた。

小口さんが、ベータカプセルのボタンを押し、消化した事は間違いなだろう。
ただ、閃光と共に吹き飛ばされ、以降の事は全く覚えていないのだ。

結局、警察官には小口さんの事は一切話すことなく、その日の夕方僕は退院した。

厨房の火災について、私の過失は無いということになり、私は二日間休養を取る様に言われた。

春一番も吹き、すっかり暖かくなり、アパートのこたつも押入れに片付けた。
少しだけ広くなった6畳の和室の真ん中に寝転がり、僕は考えた。
一体、火事の夜の出来事は何だったのだろう?

現実ではあり得ない話だが、状況を考えても、あの日の晩に火事を消したのは間違いなく小口さんが使ったベータカプセルだ。

以前、調べたwebsiteで小口さんはベータカプセルを買ったのだろうか?
もう一度、調べて見ようと思いPCを開いた。
確か、Google検索で10ページ目位にあったと思う。

あれ?見つからない。。。

20ページ目位まで、見たが見つからないので、Yahooでも検索してみる。
無いよ。。。ページが見つからない。。。

サイト内に書いてあった事を思い出してみた。
1)このベータカプセルの持つ奇跡を信じる人にしか販売をしていない事。
2)支払いは現金前払いである事。
3)夢は5つまで叶えることが出来る事
4)使用後は燃えるごみとして処分する事が出来る事。

確か、小口さんの部屋から持ち帰った時、カウンターの数字は「4」だった。
・・・と言うことは小口さんが1回、何かしら願いを叶えたと言う事だろうか?
そして、私が持ち帰った。。。

私がベータカプセルのスイッチを押したのは、冬の寒い日にむしゃくしゃした気持ちで酒が飲みたくて、「酎ハイでも飛んでこい! 」って叫んだ時だった。
あれっ?ちょっと待てよ。。。
その後、酔っ払った竹井さんに起こされたけど、大量に酒を買ってきてくれたっけ。。。その中に酎ハイも入っていたぞ。。。

まさか。。。

今の時代にそんな馬鹿な事はないよ。
こんな事は絶対に偶然に違いない。

この時、カウンターを「3」から「2」にしてしまった。

でも、「4」から「3」にしたのは、いつだろう?
その時になにか、奇跡は起きただろうか?

珈琲豆をガリガリと挽きながら、当時の事を思い出してみる。
そうだ、日報を見返してみよう。
淹れたての珈琲を飲みながら過去の日報を確認してみる。

ワーカーが手書きで苦労している中、私はデジタル人間なので、ワードで日報を提出させて貰っている。

小口さんのアパートからベータカプセルを持ち帰った日以降の日報を読んで見る。

「あった。。。これだ。。。」

伊藤さんの転倒未遂事故。
正式に日報には記載していないのだが、不思議な出来事だったので、コメント欄に書いておいたのだ。

ピアノのレクリエーションの最中、一人では立つことの出来ないはずの、伊藤さんがベッドから立ち上がり、前に倒れ、机、椅子にぶつかる!と言う状況で、不思議なことにクルッと、向きを変えそのまま椅子んストンと腰をかけたのだ。

そう言えば、あの時、椅子に座っていて咄嗟に立ち上がろうとしたけど、ポケットの中のベータカプセルを握っていて立ち上がれなかったんだっけ。

今でも信じられないし、こんな馬鹿な話は無いと思う。でも一応は身の回りで起きた不思議な出来事とベータカプセルは紐付いた。

新品の状態で、カウンターは「5」そして、僕が持ち帰ってしまった時は「4」だったので、小口さんも何か1つ願い事をした事になる。
さ〜て、これは日報に書いていないぞ。
私と出会う前に、願い事をしているかもしれない。

子供だろうか?空き缶を蹴りながら歩く音が近づいてくる。

あ・・・っ。思い出した。。。

正しいか分からないが、小口さんの介護度判定だ。
あれだけピンピンしている小口さんに介護度3が出るわけない。
ベテランケアマネの橘さんだって、こんな判定は信じられないと話していた。

そもそも、あり得ない話なのだが、これで辻褄はあった。

 

第10話 さようなら、小口さん。そして最後のお願い。

二日間、休養の後、私はデイサービスに復帰した。

当日は、小口さんの利用日だったので、お礼とお詫び、そして、出来ることならベータカプセルについて色々と話をしたかった。

でも、利用者さんが来る前、朝一番に墨田区役所に行く急用が出来てしまい施設に戻ったのは昼前だった。

真っ先にデイサービスルームに行き、小口さんを探したが姿が見えない。

ベテランの星さんに聞いてみると、朝一番で橘さんから、『小口さんはしばらくお休みします』と連絡が入ったそうだ。

桜の季節を迎え、すっかり暖かくなり、送迎バスを使い花見に行ったり、新規利用者さんの担当者会議が重なったり、僕は忙しく毎日駆け回り、小口さんの事を忘れてしまったいた。

ある日、入浴の手伝いをしていると、珍しく施設長がやってきた。施設長室に来るようにとの事だ。

長靴や防水エプロンを脱ぎ、施設長室に行くと、ケアマネの橘さんが来ていた。

「あ〜。橘さん、ご無沙汰しています」

「室川さん、久しぶり・・・実はね、小口さんアパートの階段から落ちてしまい、入院しているの。命に別状は無いのだけれど、最近、落ち込んじゃって、口も聞いてくれないの」

どうやら、タバコを買いに行こうとして、急な階段を踏み外し落ちてしまったらしい。

「そうそう。小口さんから、何か預かったの。これを室川さんに渡してくれって」

新聞紙にクルクルと巻かれた筒状のモノ。
間違いなくベータカプセルだ。

橘さんからの情報によると、明後日には一般病棟に移るのでお見舞いが可能になるらしい。
花を買ってお見舞いに行こう。
また、デイサービスで一緒に楽しく過ごすのだ。

橘さんが帰った後、デイサービスルームの隅で新聞紙を開いてみた。
そう。ベータカプセル。

そして、カウンターは「1」になっていた。

翌日も忙しい何のって。。。
一日に担当者会議5本は新記録だ。この月給でこの労働量はどうかと思う。

3本目の担当者会議の途中で携帯電話が鳴った。
着信案内を見ると、橘さんからだ。

「橘さん、こんにちは。お世話になっています」

「室川さん。今忙しい?」

「はい。担当者会議で利用者さんのお宅にお邪魔しています」

「あら、そう。いま、菊川病院から電話があって、小口さん急に容態が悪くなってしまったようなの。私も駆けつけたいのだけれど、今私用で栃木県まで来てしまったいるの。行けないかしら」

「行きます、行きます!」

利用者さん、ケアマネに事情を説明して、退席させて貰った。

なんだよ!小口さん、大丈夫だって言ってたのに、どうして。どうして。

こういう時に限って、一番大きな送迎用の車で来てしまっていた。
墨田区の裏通りは普通車がやっと通れる位の細い道が多い。
イライラしながら、菊川病院まですっ飛んで行った。

大した混雑もなく20分ほどで菊川病院に到着した。

受付で小口さんの病室を聞き、4階に上がり、その部屋は突き当りにあった。
そーっと引き戸を開くと、アルコールのツーンとした匂いがして、ベッドに小口さんが寝ていた。

転倒した時に怪我をしたのか、頭には包帯、酸素マスクまでつけている、ベッドの横には心電図がゆっくりと波打っている。脈を測っていた看護婦さんに挨拶をして、尋ねてみる。

「小口さんどうですか?」

「今朝から急に容態が悪くなったの」そう話す表情はとても暗い。

意識はあるのだろうか?
身を乗り出して小口さんの顔を覗き込む。

小口さんが薄眼を開いた。

虚ろな目で僕を見る。

その時、戸が開き、聴診器をぶら下げた医者が入って来た。
胸に聴診器を当て、ライトで目を照らし、一言二言看護婦と話すと、部屋を出ていった。

僕は後を追いかけ、容態はどうなのか?聞いてみた。

「良くないね。貴方はケアマネジャーですか?」

「いえ、デイサービスの担当者です」

「そうですか。兄弟親戚がいたら、病院に来て貰ってください。今晩持つかどうか?の状態です」

え〜〜っ!

退院したら、小口さんと出会ったあの酒場でお祝いをしようと楽しみにしていたのだ。
今晩がヤマ場なんて。そんな。。。

部屋に戻ってみると、丁度、看護婦が緊急用のボタンを押した所だった。
心電図の波がとても小さくなっている。
パジャマの袖をめくり、折れそうに細い小口さんの腕に注射をしている。

「私、注射をもう一本取りに行って直ぐに戻るので、あなた、小口さんに話しかけていてくれる!」
そう言い残し、看護婦は走って部屋を出ていった。

「小口さん。そりゃ無いよ〜。あんなに元気だったのに。僕たちが一番最初に出会った駅前の酒場、覚えてる?退院したら、一緒に酒場に行こう!店で一番高い酒を飲み、美味しい料理をたらふく食べて。。。最後は、ベータカプセルを押して、親父の奢りにしちゃう!ね。ね。小口さん」

看護婦と医者が慌てて入ってきた、僕は一歩下がり、医者の肩越しに小口さんを見ていた。
ポケットに手を入れると、ベータカプセルが触れた。
僕は取り出し、こっちを向いていた小口さんに見せ、首を立てに振った。

小口さんはゆっくりと首を横に振った。

その瞬間、僕は病室から駆け出し、階段を一気に上り屋上に行った。
この病院は何階建てなのだろう、階段が永遠に続く続く様な気がする。
屋上まで出て、非常用の柵を乗り越え、僕は一番高い所に立った。

火事の現場で見せてくれた小口さんの姿を真似して、足を肩幅に開き、左手を腰にあて、右手に持ったベータカプセルのボタンを押した。

『シュワッチ!』

押した瞬間に目を閉じてしまったのだが、厨房で見た時の様に光ったのだろうか?
カウンターを確認したら「0」に変わっている。

これで安心。最後の願い事が叶った筈だ。

慌てて部屋に戻ってみると、医者も看護婦も椅子に座っていた。
先程と違い慌てた様子も無い。

容態を聞こうと、看護婦に近寄ると、先に医者が口を開いた。

「残念ですが、たった今、息を引き取りました。」

「出来ることが尽くしましたが、ここまで急に容態が悪くなることは予想出来ませんでした」

心電図の山は無くなり、病室にピーと言う音だけが響いていた。

ふざけんなよ、インチキベータカプセル!これまでの4回は願いを叶えてくれたじゃないか?
トンデモナイ不良品だ小口さんに20万円返せ!
小口さんの、細い身体を抱きしめて大声で泣きながら僕は悪態をつき泣き崩れた。

 

 

第11話 そして現代へ

「室川さんよ〜〜そろそろ、こんな大変な仕事辞めて結婚でもした方がい〜んじゃね〜か〜〜〜」

「余計なお世話ですよ〜〜」

春のポカポカと暖かなベランダで僕は車椅子に乗った老人と掛け合い漫才の様な会話をしている。

車椅子に乗った老人

そう。小口さんだ。。。

一度は完全に停止してしまった小口さんの心臓なのだが、医者と看護婦が病室を出で暫くして、心電図が元気よく動き始めたのだ。

僕は状況が飲み込めないながらも、病院内ではありえないほどの大声で「お医者さ〜〜ん!!」と叫んでしまった。

小口さんの目がうっすら開き、私の目と合った。
いや、合ったような気がした。

すこ〜し、口が動いているので、「小口さん!何?何?」と耳を近づけた。

「シュワッチ」

大腿部を骨折してしまった小口さんは、残念ながら車椅子生活になってしまった。
でも、それ以外の怪我は医者が「あり得ない!奇跡!」と言うスピードでドンドン治っていった。

そりゃそうだよね。20万円もするベータカプセルだからね。

私は、その後施設を退社する。

そして、ケアマネジャーの資格を取得して、小口さん担当になった。

カウンターがー「0」になったベータカプセルは、今でも、僕が持っている。
友情の記念に。。。と小口さんからプレゼントされたのだ。

もう、5回願い事を叶えて貰ったので、ただの玩具だ。

でも、これからの人生で辛いことがあった時には、足を肩幅に開き、左手を腰に当て、右手に持ったベータカプセルを高々と上げ「シュワッチ!」と空に向かって叫ぶのだ。

困難は自分で打ち勝たなくてはいけない。

さて、これでお話は終わりです。
私が墨田区の高齢者施設で働いていたのは、約6年前です。
当時、介護の現状を一般の人に楽しく理解して貰えないか?と思い書きました。
半分位までは調子良く書いたのですが、その後、施設を辞め、おまけに離婚もして、更におまけにベトナムに来てしまいました。
そして、6年ぶりに続きを書きました。

この話は半分以上事実です。

主人公の「室川」はわたくし「諸川」で、小口さんも橘さん、その他登場人物も実在しているのです。
ただ、利用者さんの多くは、既に亡くなってしまっているでしょうね。

なぜ、このタイミングで続きを書いたのか?一つは小学2年生からの親友、比嘉さん(ヒカっち)から、続きは書かないの?と言われたから。

もう一つは、今現在、ハノイでの仕事が関係しています。

今、私はベトナム人実習生送りだし機関で日本語の教師をしています。
若いベトナム人が技能実習生として、日本へ行く、そのために若い彼らに日本語を教えています。

日本では「終わりゆく人」の面倒を見て、今は、「これからの若者」を育てています。
人間の人生は素晴らしい!
なぜ、素晴らしいか?
限りがあるから素晴らしいのです。

所詮、素人が書いた文章です。
誤字も脱字も文法の間違いもあるでしょう。
そこはお許しください。

ただ、やりたいことをする!
書きたいことを書く!
生きている間はチャレンジをし続け生涯現役なのです。