すべての出来事は必然性があり、それらは1本の線の上に並んでいます。
自分で道を選び始めたのは、何歳の頃だったろうか?
高校の進学だって自宅から自転車で行ける所で良いか。。。程度だったので、道を選び始めたのは高校卒業後か
もしれません。
れ以降、紆余曲折、五里霧中、右往左往そして、支離滅裂。。。色々な事がありました。
思慮深さや熟考などと言う単語とは無縁な生き方なので、さて?どちらの道を選ぼうか?と言う時には棒を投げたり、サイコロ振ってきました。
正確な回数は忘れてしまいましたが、恐らく転職だって15回以上していると思います。
もし、一番最初の選択肢で「違う道」を選んでいれば現在の生活は無いのです。
選択肢の数を掛け算して、その確率を考えると、今、こうしてベトナムのホーチミンでブログを書いている事は奇跡に近い事の様に感じます。
どこかの選択肢で「違う道」を選んでいれば、大成功していたかもしれないし、死んでいるかもしれませんね。
駅弁大学を2年で中退して、六本木にあったメイクアップスクールに通います。
そもそも、この選択肢が一般常識から外れている様な気がします。
無事大学を卒業して、零細企業に入社していたらどうでしょう?
写真事務所に務める事をはじめ、屋根瓦を張ったり、ヤクザに軟禁される事だって、起業する事だってありませんね。
離婚せずに、幸せな家庭を持っているかもしれません。
寅さんも「天に軌道がある如く、人それぞれに運命を持って生まれ合わせております。」と言っている様に、
我々には運命があります。
その運命はリアルタイムで切り開かれているのか?
予め決まった軌道の上を生きているのか?
と考える事があります。
「神のみぞ知る」と言うやつですね。
私は既に敷かれたレールの上を生きているだけだと思っています。
例えば、「夜店のおみくじ」
眼の前には、何百と言うおみくじが並んでいます。
さて、当たるも八卦当たらぬも八卦。。。“A”と言うおみくじを選び、取ろうと思った瞬間、横からヒョイと現れたおっさんに持って行かれてしまいます。
仕方がないので、隣の“B”を取ります。
(仮に、おみくじ通りの人生を歩むと想定した場合)
本来“A”と言う人生を歩む予定が、“B”に差し替わってしまったのか?
私は、おっさんに“A”を横取りされ、“B”を取るというところまで、神様のシナリオ通りだと思っています。
シナリオには、
諸川の人生=“B”
おっさんの人生=“A”と書かれています。
飛行機事故などでも、同様の例がありますね。
何かしらのトラブルで、予定していた飛行機に乗ることができず。。。そして、その飛行機が墜落する。
助かった人のシナリオに、この飛行機に乗る予定は書かれていないのです。
お付き合いしている、“ガーさん”と知り合う事だって、シナリオ通りなのです。
野球解説のインチキ解説者ではありませんが、人生に“タラレバ”はありません。
残念ながら“シナリオ”の先や結果を見ることは出来ないので、日々、目の前で起きることに対して、淡々と生きるしかありません。